古代日本・九州から朝鮮半島にかけて(想像)

邪馬台国時代のモノの流通・情報の伝播の補足ノート

 上記ノートには、邪馬台国時代のモノの流通・情報の伝播は、200世紀を超える石器・縄文時代の中で構築されたであろうという理解を纏めた。
 神津島の黒曜石の経済圏を一例に、複数の経済圏の重なりのイメージを描いてみた。この経済圏、流通経路の盛衰や変化はあっただろうが、邪馬台国から現在までの時間の10倍以上の長きに渡り続いたわけだ。
 似たりような経済圏の形成や盛衰は、北海道から、隠岐島(島根県)、姫島(大分県)、腰岳(佐賀県)、牟田(長崎県)など数十カ所以上の黒曜石産地の他、ヒスイ、サヌカイト、丹生(朱)、塩やある種の貝などの資源産地を中心に延々と続いたはずだ。
 そして、弥生・邪馬台国時代以降の状況も、その延長上にあるはずだというのはごく自然な想定だろう。(当たり前だろうと言われる気もするが)

縄文時代の資源の交易・物流イメージ

 どの経済圏(物流圏)も長い縄文時代の時間の重みを考慮すれば、この時代の理解を間違えれば、弥生時代、古墳時代の理解も歪むと思っている。(長い縄文時代の時間の重みの影響があったはずだという理解は、自分の古代史の個別理解内容とは別に正しいはずだ)
 そして、各地域の様々な経済圏(物流圏)の中で、弥生・邪馬台国・古墳時代に特に大きな影響を与えたと想像するのは、九州から朝鮮半島にかけての経済圏だ。


1.古代九州~朝鮮半島の経済圏(物流圏)について(想像)

 「想像」と書いたが、できるだけ史実と思われる事項をベースにしたい。
朝鮮半島との歴史を考えるには、BC100世紀~BC50世紀頃の朝鮮半島の遺跡が出土しないという「空白時代」からスタートするのが適切だろう。
 遺跡が無いことは必ずしも人が住んでいなかったことを意味しない。が、BC50世紀頃までは極端に人口密度が低かったであろうことは確かだろう。
 一方、その頃の日本列島は別ノートに纏めたように、BC280世紀から200世紀以上の時間をかけて構築された地域毎の経済圏が、重なるように盛衰を繰り返しながら既に形成されていたと考えられる。
 BC53世紀頃、鹿児島の鬼界カルデラ大噴火が起きるが、火山灰が今の韓国の南東半分や日本の東北地方南部まで届くほどだったという。
 その後、それ以前は遺跡空白地帯だった朝鮮半島の南海岸沿いには、東三洞貝塚遺跡など、九州と同じ文化を持ったように見える遺跡が出現、その遺跡からは、西北九州で出土するような、大型の結合釣針や、阿高貝塚(熊本県)とここでしか出土してない貝面、九州の縄文土器型式の、隆起線文土器や轟B式土器、曽畑式土器などの土器片、牛ノ岳(長崎県佐世保市)や腰岳(佐賀県伊万里市)産の黒曜石が出土するという。(参考資料

東三洞貝塚(韓国)出土品イメージ

 下の右の図は、現在の日本国内に限定したイメージ図になっているが、縄文時代に国境などない。九州近辺の実態は、下の左のような物流・経済圏になっていたと理解すべきだろう。

九州~朝鮮半島南部の物流圏

 朝鮮北部から来た人びとの遺跡だという人もいるかもしれないし、その可能性を否定はできない。しかし、出土遺物の分布を見れば、可能性の比率は6:4~7:3ぐらいで九州から伝播したと考えるのが自然ではないか?
 自分がそのように考える理由は、出土遺物だけではなく、人口過疎地域になる以前の朝鮮半島の主要遺跡の立地がある。
 旧石器時代の日本の遺跡は1万箇所以上あるのに対し、朝鮮半島(韓国)では200箇所程度とされる。
その中で、その時代の朝鮮半島の主要な遺跡として挙げられる、黒隅里洞窟(平壌南東)、石壮里遺跡(錦江上流、公州市)、全谷里遺跡(ソウル北東)の立地を見れば、どれも海岸沿いではない比較的内陸にあることに気づくと思う。これらの遺跡の主は(海洋系ではなく)大陸系の人びとだったからだと考えるのが、自然ではないか?
 朝鮮半島の北には東西に長く走る標高2700mの長白山脈、鴨緑江、更に南下しても漢江、錦江などの移動阻害要因がある。朝鮮半島の海洋民がいたら、なぜ50世紀以上の長きに渡り遺跡の空白期間ができたのか?更に、時代がずっと下り、イザベラ・バードの「朝鮮紀行」を読めば、19世紀になってさえ、航行船が貧弱だったイメージは拭えない。
 それらの背景と、縄文時代の海洋運搬の範囲を比較すれば、朝鮮半島南部に先に到達したのは日本列島からの人びとだったと推測する方が蓋然性は高いと言えるのではないだろうか?

伊豆諸島海域・対馬海域

 どの程度の人びとが渡ったかは分からない。しかしDNAハプログループの分析結果などを見ていると、九州から朝鮮半島に人びとが渡ってから数百年から千年後、大陸から櫛目文土器(遼河文明)を使用する人びとが入り、縄文人と混血したと考えれば、その後の理解がしやすい。つまり、DNA痕跡が残るだけの人びとが入ったと考えるのが妥当だと思っている。
 藤尾慎一郎「弥生人はどこから来たのか」に、縄文前期に併行する韓半島南部の遺跡の女性人骨は現代日本人に近接して、現代韓国人と大きくかけ離れていた、というやや驚きをもった記述がある。
 しかし、これまで書いた朝鮮半島の古代の様子を考えれば、むしろ当然の結果だと思えるのではないだろうか。
 以上の歴史と、九州~朝鮮半島南部の物流・経済圏の形成を前提として考えると、弥生~邪馬台国、更に古墳時代への歴史の流れが非常に理解しやすく思える。
 弥生時代併行期だと思うが、朝鮮半島の勾玉の出土分布などはその一例だろう。(参考サイト

朝鮮半島の日本製勾玉出土遺跡

 他にも、百済の王族は入墨が一種のステータスシンボルだった記録があるが、これは明らかに大陸系とは違い、どちらかといえば倭人系に近い文化だろう。(ツングース系の影響もあるかもしれないものの、北方の文化は高句麗や新羅の方が近いとも思う)
 古代日本史の教科書はじめ、書籍には朝鮮半島からのモノや技術の流入記事にあまりに偏っていると感じているので、日本列島から朝鮮半島への流出の歴史を軸にしたが、当然逆の流れもある。
 自分が注目したいのは、支石墓の分布だ。これは明らかに大陸から朝鮮半島を経由して、九州に流入した文化の例だろう。

朝鮮半島と九州の支石墓分布

 更に気になるのが、同じ九州でもその分布が西北に偏っていることだ。九州の東海岸には見られない。日向・宇佐など後のヤマト王権と関係が深そうな地域や、後の宗像氏の勢力範囲と思われる宇佐や北九州は、物流圏・文化圏が違っていたのではないかと想像している。これは必ずしも交流がなかったことを意味しない。ただ、何らかの違いはお互いに意識していたのではないだろうか?
 自分の頭の中では、九州のこの文化圏の違いが、邪馬台国とヤマト王権の奈良盆地内のイメージの違いと関係している。

2.大陸側の「倭人」に対する認識(想像)

 上記の古代九州~朝鮮半島の経済圏(物流圏)に関する認識を持った上で、一旦視点を変えて当時の大陸の官僚が持っていたであろう「倭人」に関する認識を想像してみたい。
 まず、BC1世紀頃の「漢書地理史」に「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云」(楽浪海中に倭人有り、 分れて百余国を為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ)という記事がある。

楽浪海中の倭人

 一般的には倭国は日本列島と考えられているようだが、自分には少し違和感がある。結論から言えば、後の任那や伽耶など、BC50世紀以降九州から朝鮮半島に渡った人々と大陸から半島を南下してきた人々の間で40世紀近くも混血が進んだ、朝鮮半島南部の人々に対する認識だったのではないかと想像している。(当時の大陸の人々にとって、その先の世界は未知だった)
 そして大陸の人々は、話す言葉も文化も違うこれらの人々を「倭人」と称したのではないだろうか?
 おそらく彼らは入墨をしていたのではないだろうか。そしてそれは後の魏志倭人伝の時代、魏の対抗勢力である呉など、中国大陸南部の人々の風俗を連想させたに違いない。
 そのように考えると、後漢書東夷伝や魏志倭人伝などの様々な中国史書に現れる「倭」の領域が、後の任那や伽耶地域以南と漠然と認識されていたであろうことと辻褄が合ってくる。
 このサイトに詳細が解説されているが、これを読む前に、BC50世紀以降5千年近くも続いたであろう、九州~朝鮮半島南部の経済・交易圏を想像してみれば、割とすんなり腑に落ちるのではないだろうか?
 「魏志韓伝」辰韓伝の「國出鐵韓濊倭皆従取之 諸市買皆用鐵如中国用銭 又以供給二郡」(国は鉄を出し、韓、濊、倭はみな従いてこれを取る。諸市で買うにみな鉄を用ひるは、中国が銭を用ひるが如し。また、以って二郡にも供給す。)に出てくる「倭人」というのは、後の任那や伽耶にいた人々や、九州からの「本土」の倭人だったのではないか?
 そう考えれば、邪馬台国の卑弥呼が帯方郡を通じてタイムリーに魏に朝貢したり、4世紀には当たり前のように朝鮮半島に「進出」するのも、更に、朝鮮半島に百済や新羅が任那・伽耶領域と境界を接しながらもそれらの地域の併呑にそれなりの時間がかかったのも整合性があるように感じられるのではないか?

3.古代九州~朝鮮半島の経済圏(物流圏)と邪馬台国~古墳時代の銅鏡の関係

 BC50、40世紀から4,5千年続く縄文・弥生時代の九州~朝鮮半島の物流圏・文化圏の推移は、邪馬台国時代、古墳時代に影響するわけだが、長くなるので別ノートに纏めた。

魏志倭人伝の解釈について(リンク)

九州説について(リンク)

畿内説の根拠について(リンク)

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