邪馬台国時代のモノの流通・情報の伝播

卑弥呼・邪馬台国 九州説・畿内説 (畿内説の根拠について)の補足ノート


1.モノの流通・情報の伝達範囲と政治権力が及ぶ範囲

 再掲載になるが、吉村武彦氏は著書「ヤマト王権」で、岡村秀典「三角縁神獣鏡の時代」の図を引用し、「当初、九州から近畿地方に比較的均等に分布していた銅鏡が、二世紀半ば以降、四国東部から近畿に集中(考古学からみた漢と倭)したことから、近畿が列島の政治的センターになったことを意味する」という見解を支持している。

 これに限らず、土器、銅鏡、外来品などの出土や古墳形態の類似性を根拠に政治権力の影響範囲を論じるケースが多いが、基本的にはモノの流通や風習・慣習・儀式など情報の伝播範囲と、政治権力の及ぶ範囲は分けて考えるべきではなかろうか。
 専門家の解説でも、これを曖昧にしたまま論説を展開しているケースが多いように感じる。
 モノや情報の流通・伝播は、政治権力を行使するための必要条件ではあっても、十分条件にはなり得ない。
 日本のアニメの世界的な影響範囲や、日本にあふれる海外の生産品と、それらの政治的影響度との関係を考えれば、当然のことだろう。

2.古代日本のモノの流通イメージ

2-1.縄文時代、物流を担った人びと

 邪馬台国時代の物流を考える為には、それ以前の歴史のできるだけ蓋然性が高いと考えられる物流や交通網の想定が大切ではなかろうか?その前提イメージ次第で、その後の歴史の理解が変わるのではないかと思っている。
 縄文時代から神津島の黒曜石が関東・中部で利用されていたことを知っている人も多いと思うが、黒曜石に限らず、縄文時代の資源の流通範囲を見てみると、複数の地域経済圏があったと考えると理解しやすい気がする。
 縄文時代は定住生活が始まったとよく言われる。しかし、モノが勝手に移動するわけではない。大多数の人びとが定住する中、モノの移動を担う人たちが一定数いたことは確かだ。仮に数十家族の必需品に近い物資を運んでくるには、物資の大きさや重量にもよるが、それなりの頭数がなければ不可能だったはずだ。
 それが、どの程度の割合だったのか、100人に1人ぐらいか、10人ぐらいいたのか、専門家ならそのオーダーぐらいは見積もれるのではないかと思う。数%ぐらいはいたとしても大過ない気がする。

2-2.縄文時代の時間経過の重み

 縄文時代と一言で表現するが、黒曜石を例にとれば、短く見積もってBC280世紀~BC10世紀まで、270世紀間にわたり延々と採掘、加工、運搬し続けたわけだ。
  BC280世紀というのは、神津島産黒曜石を加工したナイフ形石器が出土した、関東の高井戸東遺跡などの立川/武蔵野ローム層の境界の年代をどう見積もるかによるようだ。4.7~5万年前とする学説もあるようだが、とりあえず3万年前というのが一般的な説のようなので、それに従う。
(参考:https://core.ac.uk/download/pdf/59304658.pdf

 いずれにしろ、邪馬台国の時代から現代までの10倍以上の時間が経過し、その間おそらく様々な変化はありながらも、神津島から列島本土への物流(採掘、加工など含む)が続いたことは確かなわけだ。

縄文時代の資源の交易・物流イメージ

 その物流経路は、海運、陸運含め、後の時代に影響しないはずがなかろう。むしろ、縄文時代にほぼ築かれたであろう流通網が進化・発展して邪馬台国時代の物流経路になっていくという、縄文時代の時間の流れの重みを大切に考える必要があると思っている。
 そしてこれは、神津島の黒曜石に限らない。日本列島のそれぞれの地域でこのような物流網が何10世紀もの時間をかけて構築されていったという認識は非常に大切ではなかろうか。その一例として情報量が比較的多い、神津島の黒曜石を自分なりに纏めてみた。

2-3.縄文時代の物流イメージ(黒曜石を例に)を想像

和田峠・神津島・黒曜石経済圏

 自分が当時の縄文人になり、神津島で黒曜石を採取してどこかに運ぶとしたらどうなるか想像してみる価値はあるだろう。
 自分の幼少期や、乗り物を使わずに歩いてどこまで行けるか考えてみれば、1日の行動範囲がどの程度か想像できるだろう。明確な目的があっても、30km前後が限度ではなかろうか?
 次に、海の向こうに見える島に行きたいと思って、行けるだろうか?伊豆諸島は、島伝いでも20~30kmの海域を越える必要があるという。木製の船があっても、よほどのスキルが無ければ渡ろうとは思わないだろう。
 自分が船を操るスキルを身につけていたたとして、食糧や水はどうする?日帰りは無理だろう。渡った島での水や食糧は?そもそも、そこまでして島に渡る価値があるのか?・・・
 など考えれば、神津島での黒曜石の採掘が始まる頃(BC280世紀とする)には既にいくつかの条件が揃っていたと考えるべきだろう。
 そもそも個人的な理由で危険を冒してまで水平線のかなたの島に渡る理由はほぼなかろう。(きっかけの話は別)それなりの価値の大きさを認めていた集団があったはずだし、2~30kmも離れた島に渡るだけのスキルと、島などでのサバイバル術を身に着けた人びとが一定数いたはずだ。当然、全ての渡航が成功するはずもない。渡航やサバイバルスキル、体験談など、世代間の伝承が200世紀以上にわたり続いたはずだ。
 又、黒曜石は採掘したまま使うわけがない。加工する人びとも同様に一定数必要だったはずだ。黒曜石の製品のユーザーがいなければ話にならない。又、航海の為の船を作る必要もあるし、一艘の船だけを使い廻したというのも不自然だ。他にも、船や石製品の製作者の食糧も必要だし、土器も使っていたのだから、この頃は既にそれなりの分業形態が形成されていたと考えるのが合理的だろう。老若男女含め、数十人~100人程度の集団ならこのぐらいの分業体制はできるかもしれない。
ここまでがひとまず、神津島で黒曜石を採掘した縄文人の、最低限の集団単位の自分なりのイメージだ。

 前出サイトを中心に、いくつかの情報を総合してみると、更に具体的な全体像がイメージできると思う。

 伊豆半島南東部には段間遺跡をはじめ、神津島産黒曜石の陸揚げ地として知られる遺跡がいくつかあるようだが、段間遺跡からはムラで使用する以上の量の黒曜石が出土千葉県から愛知県までの広範囲の地域に運ばれ、その土地の土器などと交換していたと推測されるという。
 また、神津島から列島側とは反対にある八丈島でさえ、縄文早期の神津島産黒曜石が出土、倉輪遺跡は神津島との間で頻度が高い原材料の調達と製作が行われていたと推測されるという。この遺跡から出土する土器型式から、南関東はもとより,北陸関西,そして中部高地との幅広い交流が見て取れる、とある。
 八丈島は人が住み続けたわけではないようなので、盛衰はあったようだが、縄文早期から列島との往来もできたことは明白だ。
 八丈島だけでなく、伊豆諸島の遺跡から,関東を中心に製作されたと考えられる土器が多量に産出、特に縄文前期末の十三菩提式段階から中期初頭の五領ヶ台式段階にかけての土器の出土量は著しく多いという。

 このように神津島産黒曜石との交換に製品化された土器が搬入された範囲は,東北~関西の太平洋側地域および中部高地に及んでいる。
 逆に、神津島産黒曜石の流通先を見ると、千葉県成田市(南三里塚宮原第一遺跡)出土の黒曜石は,ほとんどすべてが神津島産。また、長野県(矢出川遺跡)の細石刃石器群では,近くの霧ヶ峰や北八ヶ岳地区産などだけでなく、多量の神津島産の黒曜石が出土し、後期旧石器時代の末には,神津島産黒曜石がすでに関東や中部高地にも伝播していたことは確実だという。

 以上は、200世紀間以上の縄文時代を通じて一定だったわけではない。当然経路含め、盛行衰退があったはずだ。ただ、この長い期間にわたり一種の経済圏が継続したことは間違いなかろう。
 更に重要だと思うのは、神津島の黒曜石の流通範囲に重なるように、和田峠や霧ヶ峰周辺産の黒曜石も関東や伊豆地域に重なるように流通していることだ。
 三浦半島や、房総半島はじめ、神津島産黒曜石の陸揚げ地の段間遺跡からさえ、長野県の和田峠や霧ヶ峰周辺産の黒曜石の出土はあるという。
 又、青森県の三内丸山遺跡でも北海道産黒曜石以外に、霧ヶ峰産黒曜石も出土しているという。(参照サイト

 ちなみに縄文後期後半以降は神津島産黒曜石の産出頻度が減少し、霧ヶ峰産が多数を占めるようになり、その後次第に黒曜石の利用自体が減っていくようだ。

 最後に、交易範囲のイメージがある程度できたとして、例えば神津島など資源産出地から加工地まで、あるいは加工地から消費地まで特定の個人ないし、数人が一貫して運搬したのだろうか?
 基本的にはリレー式で運ばれたと考えた方が自然ではなかろうか?それぞれ、得意分野や領域があったとは思うが、様々なリスクを考えれば、せいぜい日帰りか、一泊程度で行動できる範囲だったのではないか?
 ただ、それも時代とともに、隣接する集落との関係次第では移動範囲も伸びた可能性はあろう。特に、婚姻関係などを通じ、食料調達など含め物資運搬リスクが下がれば、搬送日数も距離も伸びるだろう。物流を担った人びとの中には、一部に、長距離物流を担う人が出現しても不思議はない。

リレー方式の物流イメージ

 弥生時代中期には、青森県の砂沢遺跡で水田跡が出てくるなど、北九州からのモノ(種籾など)の搬入痕跡がある他、遠隔地物流があったと考えた方が理解しやすい事例は散見される。
 おそらく、この頃までには、遠隔輸送を得意とする人たちが出てきていたのだろう。
 彼らが手ぶらで戻るはずがない。東北や関東の土偶や石棒が西日本に広がるのも、彼らの影響があったと考えられるのではないか?
 そしてそれが後に、宗像氏や物部氏、海人氏と呼ばれる人たちになっていくのではないだろうか?
 血縁関係があった可能性は高いだろうが、必ずしもそうではないかもしれない。なにしろ、一夫多妻の世界だ。

 神津島の黒曜石を例に、物流イメージを纏めてみたが、黒曜石の産地は北海道から九州まで、旧白滝村(北海道)、和田峠、霧ヶ峰周辺(長野県)、伊豆天城(静岡県)、神津島(東京都)、隠岐島(島根県)、姫島(大分県)、腰岳(佐賀県)、牟田(長崎県)など数十カ所以上あるという。
 縄文初期~後期、霧ヶ峰周辺(星ケ台、星ケ塔など)の原産地から約10km下った所に、八島遺跡群やジャッコッパラ遺跡群など、黒曜石の集積、石鏃などの石器製作、搬出にかかわっていたと推定される遺跡がある。
 このように上記の黒曜石産地周辺では大なり小なり、その採掘・加工・流通・利用の分業体制ふくめた経済圏ができていたと考えて良いと思う。

2-4.縄文時代の物流イメージ(全体像)

 以上は、神津島の黒曜石を例にした縄文時代の物流イメージだが、同様の物流経済圏のようなものが、黒曜石の各産地だけでなく、アスファルト、ヒスイ、サヌカイト、下の図にはないが丹生(朱)などに関しても盛衰を繰り返しながら続いていたはずだ。

縄文時代の資源の交易・物流イメージ

 黒曜石などは、一種の地方通貨のような機能も持っていたと考えられないだろうか?
 いずれにしろ、200世紀間以上にわたる縄文時代の、この物流の力やそれに伴う交易路の形成は弥生時代、更に卑弥呼・邪馬台国の時代に影響がないはずがない。
 そしてもう一点、自分が重要だと思っているのは、上記のような一種の経済圏のようなものの中に、九州から朝鮮半島にかけての経済圏があったであろうということだ。長くなるので、これは別のノートに纏めた。
 このような経済圏が固定的なものであったはずがない。変化した領域、変化しない領域はあっただろうが、土偶、石棒、石柱、木柱、土器、石器などの流通とともに、祭祀など含めた文化領域の伝播・変化がゆるやかに、しかし確実に進行した。
  設楽 博己「縄文vs.弥生 先史時代を九つの視点で比較する
  藤尾 慎一郎「弥生人はどこから来たのか
  寺前 直人「文明に抗した弥生の人びと
などが参考になった。

3.縄文時代の情報の伝播(想像)

 人がモノを運ぶ以上、モノだけが移動、伝播するはずがない。情報もそれに伴って拡散するのは当然だろう。
 テレビやインターネットなど無い時代、遠くのクニについての情報が、モノを運んできた人びとによってもたらされる様子は、想像しにくい若い人たちもいるかもしれないが、多くの大人は自身が子どもの頃を考え、想像すれば比較的容易に思い描けるだろう。
 ここでも重要だと思うのは、
1.遠隔地の情報は比較的限られた人びとによってもたらされた
2.主要物流拠点以外の地域には、人づての噂によって遠隔地情報がもたらされたであろう。

 モノの遠隔輸送に携わった人びとは、自身が知る情報を全て正確に伝えたであろうか?貴重な情報は専有したかったし、そうしたのではないだろうか?貴重な情報を伝えるにしても、それなりの対価を求めただろう。
 そして、そのような情報(例えば貴重資源の産出地、供給地など)を有効に活用したに違いないし、そのような情報の把握が彼らの優位性の根源になっていったに違いなかろう。
 一方、子どもの頃伝言ゲームをしたことがある人は、情報がいかに不正確に伝わるか、体験的に分かるのではないか?
 もちろん、ゲームは通常1本線なので、複数情報ルートがある日常生活にそのままあてはまるわけではないが、複数伝言ゲームルートがあれば、情報はかえって混乱することも事実だ。
 現代でさえそれに近い状況があるのだから、情報源が限られる古代社会であれば、特に遠隔地情報の質はあまり高いものだったとは思えない。
 ただし、身近な地域の個人や集団の経験知とその伝承に関しては、全く様子は違っていただろう。
 時間的な経緯の中で、個人なりその所属集団が「確かだ」と思える情報が世代を超えて伝えられていったのではないだろうか。

4.邪馬台国時代のモノの流通・情報の伝播(想像)

 200世紀を超える日本の石器時代、縄文時代を通じて構築されてきたであろう、モノの流通や情報の伝播の様子を考え、邪馬台国時代のモノや情報の流通、伝播がそれとどの程度違うか考えれば、おそらく大した違いはないだろうと想像できるのではないか?
 違うとすればそれは、突発的なものではなく、延々と続いてきた縄文時代からの変化の流れの中で考えるべきことだと思う。
 当時の人びとが、時代を分けて認識していたはずがないではないか。

魏志倭人伝の解釈について(リンク)

九州説について(リンク)

畿内説の根拠について(リンク)

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