邪馬台国や倭国のイメージと、纏向、ヤマト王権のイメージの違い

卑弥呼・邪馬台国 九州説・畿内説 (魏志倭人伝の解釈について)の補足ノート

 タイトルは文字通り解釈すると比較対象が不明確で、ヘンですが、あえてこのままにします。(そもそも、モヤッとしている対象の比較なので)

 畿内説を採る人たちは、魏志倭人伝に描かれている倭国、邪馬台国のイメージはヤマト王権の纏向のイメージに合っているのだろうか?
 自分にとって大きな疑問の一つだ。

1.纏向のイメージ

纏向の出土品

 上の写真は、このサイトからの引用だが、説明を読まないと分かりにくいかもしれない。韓式系土器片もあるが、布留0式期古相(3世紀後半)のもののようだ。古墳からの出土品は別に比較した方が分かりやすいと思うが、上段の周濠出土木製品とU字形木製品はそれぞれ、纒向石塚古墳、勝山古墳からの出土品だ。
 説明文も読んだうえでの全体的なイメージとしては、祭祀的な、精神文化に重点がある地域のイメージが色濃くないだろうか?

2.原の辻遺跡のイメージ

 比較対象として、ほぼ同時期の原の辻遺跡(長崎県壱岐市)を選んでみた。古墳の副葬品は敢えて除外してある。

原の辻遺跡の出土品例

 写真は主にこのサイトからの引用だが、全体像の説明は、このサイトが簡潔に纏まっていると思う。
 武具や金属製品、楽浪系土器など、纏向とはだいぶ色合いが違うのではないか?自分には、全体的に精神性重視というより、即物的、実用的な価値に重きが置かれた文化のように思える。

3.北九州と纏向の古墳副葬品比較

古墳副葬品イメージ比較

 厳密な比較は難しいが、吉武高木遺跡が少し古い以外はだいたい3世紀の比較になっているのではないかと思う。対象古墳を増やせばより正確になるが、全体のイメージが変わるとは思えない。
 北九州(左)では、紀元前後から(後の)3種の神器に相当するような副葬品が何百年も続いた一方、纏向では3世紀後半以降にホケノ山古墳のように、その片鱗が見え始め、それ以前の古墳からは木製品が中心だという認識が大切だと思っている。
 舶載三角縁神獣鏡の同笵関係とその伝播についてに書いたが那珂八幡古墳は、後の畿内の銅鏡文化の起点の一つとみなせる可能性が高いのではないだろうか。全体の流れを見れば、ホケノ山はその文化の受容初期段階の古墳だと考えるのが自然だと思う。
 他に、北九州の古墳のイメージは、須玖岡本遺跡三雲南河路遺跡平原遺跡、全体的には春日市展示の出土品などをざっと見てみれば、だいたい全体像が描けるだろう。
 一方、纏向の石塚山・勝山・矢塚・東田大塚古墳のイメージはこの動画で概要が分かると思う。大和盆地内でこれらの古墳とイメージが違うのが、上記のホケノ山古墳の他、黒塚古墳桜井茶臼山古墳だが、黒塚古墳は纏向より少し北の天理市で、3世紀後半~末だろう。玉類が無いか目立たず、王墓よりは武人の墓のイメージだ。桜井茶臼山古墳は纏向より南の桜井市にある。北九州の王墓とほぼ同じ雰囲気を持っているが、早くて3世紀末の築造だと理解している。(ひょっとしたら4世紀ではないか?)
 いずれにしろ、卑弥呼の時代より少し遅い時期のように思えるのだが・・・

4.邪馬台国と纏向のイメージ比較と魏志倭人伝の記述(全体像)

 魏志倭人伝は Wikipedia に原文と現代語訳があるので、そこから邪馬台国のイメージ比較に使えそうな部分を抜き出してみた。

魏志倭人伝(抜粋)

1.入墨 4とも関係するが、入墨は南方海洋民(だけではないが)の風俗だ。昔大河「西郷どん」でも、沖永良部島の女性が入墨をしてた。
2.兵器、鉄器 纏向の出土品で兵器は出土しているのだろうか?仮に出土してたとしても、量的に、文化的に、北九州の方のイメージではないか?
5.6.統括体制、警備体制 全体的に規律やヒエラルキーの厳しさを感じないだろうか。自分には、纏向の穏やかな、牧歌的なイメージとはギャップがあるように感じる。
7.女王の死後 殺伐とした殺戮の様子はやはり、自分が持つ纏向のイメージからはかけ離れている。
・比較イメージではないが、6の「津」というのは畿内説を採った場合は難波津になるのだろうか?吉村武彦氏の解釈通り、魏志倭人伝の水行日程をそのまま読めば、纏向からは片道1ヶ月かかることになっている。
 「皆が津に臨み捜露し、文書を伝送し賜遺の物を女王に届ける」には、遣いの到着連絡を含めれば3ヶ月かかることになる。時期を決めてたとしても最低1ヶ月だ。しかも、帯方郡からだったら更に2ヶ月以上は必要になる。
・女王の居所の守衛が持っていた「兵器」は何だったんだろう?

 個別に見れば、それぞれそれなりの説明はつくだろう。ただ、魏志倭人伝が描く全体的な卑弥呼・邪馬台国のイメージは、自分には、武骨な、九州の ”熱い” 文化的イメージの方が、纏向の里山風景的な、穏やかな、祭祀的なイメージより近いように感じる。
 奈良盆地の中では、唐古・鍵遺跡のイメージが比較的北九州のイメージに近いのだが、この遺跡から直接的な九州由来の出土品は無いそうだ。又、鉄器や武器は出土してないか、あっても少ないのではないか?

 蛇足だが、纏向より少し古い出雲の青谷上寺地遺跡の出土品は、自分には纏向より北九州の遺跡出土品に近いように感じられる。

青谷上寺地遺跡(鳥取県)出土品



関連ノート

全体の概要と全体の構成は下記ノートに纏めた(#MOC241116)

縄文~古墳時代の理解(邪馬台国の位置論を意識して)

 卑弥呼・邪馬台国の九州説・畿内説の比較と自分なりの理解は、3つのノートに纏めた(#ノート241116)
卑弥呼・邪馬台国 九州説・畿内説
  ・魏志倭人伝の解釈について (このノート)
  
・九州説について (リンク)
  
・畿内説の根拠について (リンク)

 上記の前提や背景になる理解・根拠をいくつかのメモに纏めてあるが、気が向いたらこれからも少しずつ増やしていくかもしれない
(#メモ241116) 

#メモ241116


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