(邪馬台国時代)他のクニグニに対する認識(想像)

卑弥呼・邪馬台国 九州説・畿内説 (魏志倭人伝の解釈について)の補足ノート

 この時代、遠隔地の情報はモノと共に運ばれたという考え方に異論がある人はいないだろう。そのイメージは、邪馬台国時代のモノの流通・情報の伝播の後半に書いたので、それを前提に少し追加したい。
 上記は縄文時代の神津島産の黒曜石の流通を例に書いてみたが、時代が下り、邪馬台国時代になったとして、これがどう変わるだろう?
 おそらく、本質的にはほとんど変わらなかったのではないか?そして、一部の遠隔物流を担う人びとは価値が高いと思われる情報はなるべく独占し、その情報量は増え、大多数の一般庶民はほとんどが自身や年長者の経験とその継承情報、周囲から伝わってくる噂の中で暮らしていただろうと想像する。
 辻田淳一郎「鏡の古代史」の中では、朝鮮半島との交易に関連して、北九州の「水先案内人モデル」を提唱している。北九州の部族が「水先案内人」になって、近畿地域も含めた「瀬戸内以東」の地域の人びとの朝鮮半島までの往来を助けたというモデルだ。

水先案内人モデル(「鏡の古代史」より)

 いつの時代かによると思うが、自分は3世紀の段階ではまだこのレベルには至ってなかったと推測している。
纏向で出土する外来土器の物流範囲は下図の通り。これは楽浪土器の出土域が今のところ出雲止まり(山持遺跡)という事実とも符合するように思う。

纏向への流入外来土器の地域

 邪馬台国時代のモノの流通・情報の伝播で、神津島の黒曜石を例に、リレー式の物流チェーンの想像図を描いてみた(下図左)が、邪馬台国時代はそのチェーンが多少伸びたとしても下図右のように、基本的なリレー方式は変わらなかったのではなかろうか?このチェーンの内部も細分化されてたと思う。又、このチェーンを伝って移動した人がいた可能性を否定するものではない。距離が伸びるに従って、その割合は減っていくが。

リレー方式物流(情報も)

 在地の物流を担う兼業者と共に、一部ほぼ専業者や遠隔物流を担う人もいた可能性はあろう。ただ、それが本格化するのは、4世紀以降ではないだろうか?

 本題に戻って、邪馬台国時代において、他のクニグニに対する認識の程度を想像すれば、纏向を中心に考えればおおよそ前図の土器が流入する地域の噂、流入者からの情報レベル、それを超える領域は「山のあなたの空遠く・・・」の世界だったのではないだろうか?
 又、魏志倭人伝の記述を見ても、「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。」(女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できるが、それ以外の辺傍の国は遠く隔たり、詳しく知ることができない。)とあるように、だいたい九州北部一帯程度について、物流を担う人びとからの情報が入り、噂で広まる程度で、それより遠方はほとんど知らない世界だったのではないか?
 両者それぞれの領域を見ても、だいたい同じぐらいの距離範囲に思えないだろうか?

 以上を勘案して、邪馬台国時代には、畿内と北九州(に限らないが)それぞれの地域がお互いに関する情報をほとんど持っていなかった可能性もあるのではないかと思っている。

魏志倭人伝の解釈について(リンク)

九州説について(リンク)

畿内説の根拠について(リンク)

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