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まぶしすぎる映画「ハーフ・オブ・イット」 これは、私たちの物語だ。
※この記事はネタバレを含みます。まだ観てない方は急いでUターンしてください。
いま話題のNetflix映画「ハーフ・オブ・イット:面白いのはこれから」。
中国から移住してきた少女エリーがアメフト男子のポールに頼まれたのは、美人で優等生なアスターへのラブレターの代筆。エリーとポールの間には友情が芽生えるが、エリーは密かにアスターに恋をしていた…。
この映画ひとつひとつの描写があまりにもまぶしすぎて、私は、ハァーーーー尊いっすね!!と終始興奮しながら鑑賞した。
まだ観てない方は今からでも遅くないので、いますぐこのページを右にスワイプして戻し、観てきてほしい。それくらいの良作だ。
そして私は考えた。この作品がキラキラに輝いているのはなぜか。
それは、この物語が他の誰でもない、私たち一人一人の物語であるからではないだろうか。
「ちょっと何言ってるのか分かんない。だってこれは、アメリカ人や中国系移民、レズビアンのティーンエイジャーの恋話でしょ」
と思った人もいるかもしれない。でも、最後まで読んでほしい。これは誰がなんと言おうと、私たち自身の物語であるはずなのだ。
手を差し伸べること(reaching)
アスターへの手紙のためにエリーに近づいたポール。水道費を払うためにポールの頼みを承諾したエリー。それまで全く接点のなかった2人は、この件がなければお互い言葉を交わすこともないまま、「あぁそういえばそんな人もいたっけ」くらいの感じで高校生活を終えていたかもしれない。
そんな彼らだが、アスターの件をきっかけに距離が近づき、良き友人となっていく。
エリーが登下校中、他の生徒たちに名前をもじってからかわれると、ポールは彼らに怒った。もう慣れっこになってしまったエリーは彼らの心ない言葉に反応することもなくなっていたが、ポールは自分の友人が人種によって不当に扱われていることに対して怒り、抗議したのだ。
一方エリーは、ポールの恋や夢を彼女なりの方法で応援する。彼とアスターがデートする際には彼がボロを出さないように一生懸命サポートし、ポールが作るタコ・ソーセージを売り込むための手紙を各所に書きまくる。
2人にはいままで全く交わることのなかったルーツ、価値観、人生があったが、お互いのことを少しづつ知っていき、大切に想う気持ちが芽生え始める。
私たちの日常生活でもそうであるはずだ。
いままであまり関わってこなかったタイプの人でも、ゆっくり話してみたらその人にはその人なりの喜びや悲しみがあることが分かる。
私たちは相手の全てを理解することも、全く同じ気持ちになることもできないけど、一緒に思いを共有して考えていくことができる。
共通点を探し出すことだけが愛じゃない。違いを知ることも大切だ。
“手を差し伸べる”という日本語を聞くと、なんだか“困っている人を助けてあげる”というようなニュアンスに聞こえるかもしれない。だが、ここでのreachingとは、そういう意味ではない。
自分がいる位置とは違う場所にいる他者と触れ合い、想い合うこと。
これを、劇中でエリーが「愛とは…」と前置きして羅列した中のひとつにあった“手を差し伸べること(reaching)”として考えたい。
失敗すること(failing)
この作品には、さまざまな「失敗」が描写されている。
当たり前といえば当たり前だ。ティーンエイジャーを扱った映画なのだから。
もし、自分の10代にどんなタイトルをつける?と聞かれたら、この世のほとんどの人が「失敗」と名付けるだろう。
ポールははっきり言って、主要人物3人の中で1番のトラブルメーカーであり、たくさんの失敗を犯す。
だいたい、金を払って自分のラブレターを他人に代筆してもらっているし、エリーが言い聞かせても我慢できずアスターにいきなり告白してしまうし(これはその場の結果的には成功と言えるかもしれないが)、自分の本当の気持ちに気がついたのはいいがエリーに突然キスを迫り、彼女がアスターのことを好きだと分かると「地獄に落ちるよ」とか言ってキリスト教的ステレオタイプを押し付けだす。
彼は3人の中でもとびきり失敗だらけの人物なのである。
そんなポールだが、後半の巻き返しがすごい。エリーやアスターのようなハイレベルな教養をいきなり身につけることはできないが、彼はいままでの姿勢を反省し、自分の声でそれを語るのだ。
他人の言葉に頼り、他人の価値観にとらわれてきた彼が、自分の足で歩き出す姿は何よりも尊い。
エリーの言った、「愛とは…失敗すること(failing)」という言葉。
失敗を繰り返して学んでいく、成長していく。
それは、何もスポーツや仕事に限ったことではない。私たちの間の人間関係、愛であっても同じだろう。
偽らないこと(not pretending)
そんなポールが自分の言葉で語りだしたのは、「愛は偽らない(Love isn't pretending)」ということ。
彼は、「俺には分かる。偽っていたから」と続け、自分の失敗を告白する。
そう。彼は人気者アスターに好かれようと本当の自分を隠し、エリーに作ってもらった偽りのポールを演じたのだ。
エリーの知性と彼のもともとの温かい雰囲気がアスターにも刺さり、2人は付き合うことになるが、ポールはアスターの前で本当の自分をさらけ出すことはできない。偽っているから。
そのかわり、エリーの前ではありのままの自分で自由に会話を楽しみ夢を語ることができる。
ポールが「あ、自分が好きなのはアスターじゃなくエリーなのかも」と思うのも、さもありなん。
偽っていては、愛されないし愛せないからだ。
一方、そのアスターもまた、偽っていた。
これは余談だが、私は率直にいうとアスターって『美女と野獣』のベルみたいだなという印象を受けた。おまけにトリッグという、まんまガストンだよねアンタ?というようなキャラもついているし。
当初のアスターは、ベルとは違い半ば諦めている感じ。保守的で抑圧的な考えに違和感をもちながらも、それに反抗すればこの小さい町で変な目で見られてしまうし、生きるためには仕方がないと割り切っていた。
価値観も話も合わないトリッグに合わせ、いずれは彼の「お嫁さん」になって、母になって…そうやってこの町で一生を終えていくんだろうと、アスターも思っていたはずだ。(実際プロポーズを受け入れるしね)
そんな彼女を変えたのはエリーとポールだった。
アスターが、「ポールと一緒にいると安心するけど、彼とのチャットは私を不安にさせる」というようなことを言う場面がある。
彼女にとってポールの優しく温厚な雰囲気は、日常のストレスから解放してくれるものであり、エリーが紡ぐ鋭く美しい文章は、今まで自分を偽って守ってきたものが壊れないかと不安になるほどの魅力を持っていた。
そしてアスターは教会で2人が語ったことを聞いて、自分を偽るのをやめることを決意する。
小さい保守的な田舎町で、決して裕福ではない彼女が町一番の金持ちのトリッグの求婚を断り進学するのは、私たちが想像するよりずっと難しい決断だっただろう。
しかし彼女は、偽らないことを選択するのだ。
では、エリーはどうだろうか。
アスターに好意を寄せていたが、それを打ち明けられないままポールを応援することになったエリー。
彼女がアスターへの思いを周囲に打ち明けるには確かに大きな壁があり、簡単ではないことだっただろうが、愛について冷笑的に考えていた彼女もまた、自分自身を偽っていたと言えるだろう。
ここで私たちの生活に話を戻すと、
実際の日常で自分を偽らないことって実はとっても難しい(経験者は語る)。
誰だって自分をよく見せたいと思うし、とっさに取り繕ってしまうことがある。
だけど私も忘れないでおきたい。
「Love isn't pretending」、直訳すれば、「愛は偽ることじゃない。」
これは、私たちの物語。
この作品では、エリー、ポール、アスター、それぞれの現在地と未来、3人の関係性が描かれている。
上でも述べてきたように、これは確かに彼らの物語であるが、私たちの物語でもあるはずだ。
エリーは、中国からの移住者で同じ女性であるアスターに恋をした。
この事実だけで、“マイノリティ”と枠づけてしまうのが私たちのよくないところだ。(そう思わなかった方も中にはいるだろうが)
もっといえば、主人公がこのような人物だと聞くと、“かわいそうな少数者の物語”や“説教じみた話”だと構えてしまうことがあるのではないだろうか。
だが、ここで描かれているのは、「恋と友情に悩む一人の若者」の姿だ。
彼女が抱く感情一つ一つの輝きは、私たちが普段もつ感情と同じように、何にも代えがたいものなのである。
(そしてこれは余談になってしまうが、アスターを好きになったという事実だけで、彼女のことを「レズビアン」と勝手に区分するのも非常に野暮で危険な行為だということを付け加えておく。)
エリーだけでなくポールもアスターも、それぞれの個性を持ち、それぞれの現在地にいて、それぞれの未来に進んでいく。
私たちの人生と全く同じだ。
私たちも、それぞれ自分の位置で、失敗しながらも、自分を偽らず、相手を想っていくはずだ。そうあるべきだ。
この映画はまだまだ面白いところがたくさんあって、ずっと分析していたいところだが、とりあえず今回はここまでにしたい。
最後に、繰り返しになるが、この作品を、“遠い国の自分とは違うマイノリティの話”だと思わないでほしい。
これは、私たち自身の物語だ。