Joker:Folie à deux 普通の男の話
ジョーカー:フォリアドウ
フォリアドウは精神疾患の一つで他人の妄想が自分のものとして思い込んでしまう、想像が伝達する病みたいなもの
それはそれとして批判の多い理由に ミュージカル があるが、演じるという重要な主題になっているので良い表現だと思う。
劇中での台詞には -歌は心を整理する-、-もう歌いたくない-と言うのもあって、このミュージカル表現が今作を普通の後日談なしんみり映画では無く、もう一つのJOKERを表現する上でかかせない要素だった
普通に考えると1作目JOKERと本作JOKER。1で終わると虚構の混ざった新しいJOKER像と、2作目では普通の優しい男性としてのJOKER像で2種類あるのはありえない現象だが、大多数が望むJOKERは1作目のような作品だったのだろう
ハーレイに嫌われてるJOKERなんて前代未聞だし…
ハーレイはJOKERを見ているようで本当は自分自身しか見ていない。それこそ男は自分の価値を高める道具の一つであって、今回はたまたまだけ刺激的なJOKERだったという訳なのだろう。ミュージカルの中で主役を奪ってた〜的な表現はその通りなのだろう、アーサーとハーレイでは観客の存在価値が異なるのだ
フォアキンJOKERが受け入れられてないのはJOKER像と違うからであり、実際は一般男性と何ら変わらない。
だって自分の事を好きな女性が居てくれたら大抵の事は何とでもなるでしょう?嘘つかれても、そっけない態度されても好かれてると感じられれば、それだけで靡くのが男って生き物。
ラストの階段で別れるシーン。あれは役を降りる最後の分岐点だったのだろう、ハーレイの夢を掴むのを諦めたと言うのは私の好きな男である事を辞めたって意味なので、たとえ今は演じても遅かれ早かれ別れてるんだろうな…
タクシーに乗ったままで居ればあるいはカリスマとして戻れていたのかもしれない…
最後に
嘘とか演じるとか精神疾患とか関係なく、劇中で表現されたあの全てが彼だった事を理解出来てた人は結局のところ本人以外には居なかったのだ。本当はJOKERである事が苦しいと、誰にも理解されて無い、唯一の救いはパドルだけだ あのシーンだけはちゃんと目に焼き付ける必要がある
paddleの出廷が無ければJOKERのまま逝けた。心優しい人間に戻る事を望んだ結果がコレである、ラストは模倣犯が出そうな雰囲気でおしまい。本人には価値が無いと言われた様な感じがして悲しい作品だった。