選別
”医療化”だろうね。
精神医療でさんざんやってきた手法。認知症については、引用元に書いてあるとおりだが、うつ病だとか、発達障害などもそう。
例えばうつ病。
アメリカなどでは病的だとされることが、日本では好ましいとされてきた。これは文化だ。それを、異常だとし、治さなければならないものとして「うつ病は心の風邪」というキャッチフレーズを使って宣伝した。処方薬を宣伝するのではなく、うつ病という”病気”を宣伝した。
また、「発達障害」については少し違うが、名づけて、医療の対象にするという点では同じだ。「落ち着きがない」という状態の原因は、質的な栄養不足、○クチン、個性、養育環境など、いろいろな原因が考えられる。でも、これらの原因を問うことなく診断名、つまり病名や障害名をつける。エイズもこのタイプらしい。
今回の茶番は、世界規模ではあるけれど、これらのものよりも幼稚な屁理屈で展開された。だから、この茶番が起きた最初のころ、私は喜んだ。いくら何でも、これが分かる人はたくさんいるだろうって。
でも、結果はご覧の通りだ。
こんなことを言うと、何様だ!バカにしているのか!と罵声を浴びそうだけれど、このプロパガンダにまんまと乗せられる人々は、愚民という言葉がぴったりくる。そして、そういう人たちのほうが圧倒的に多いことがショックだった。少なくとも、一応、知的レベル高めの私の周囲の人は理解するだろうと思っていた。でも、理解するどころか、私のほうが「おかしい」と思っている。そして、我が子も含めてほぼ全員が液体を注入している。
これは選別だ。
「愚民」と「そうじゃない人」と。
申し訳ないけれど「愚民」の未来は暗い。
あまり考えたくないし、そうでないことを祈るけれど。
だから、私のことを「おかしい」と言う人は、肉親であっても相手にしないことにする。これからは、「愚民じゃない人」と愚民側にいるとしても「私を頼りにする人」のために奉仕する。「私を頼りにする人」は、少なくとも私の邪魔をしたり、否定をしない。いや、させない。そうしているうちに、場合によっては愚民側から抜け出せる可能性もあると思う。
今、インフレに向っている。
どっぷり愚民側にいる人と関わることは、徒労に終わる。正直、時間のムダ。その時間やエネルギーは、「愚民じゃない人たち」に使う。「愚民じゃない人たち」とは、言い換えれば生き残る人たち、つまり未来だ。
人生の先輩を見ていてそう思った。
衰えてしまった機能については、手助けしたいと思う。でも、高齢者だから、病名がついているからと言って、その人の”要望”に応える義務など私にはない。お金を払って(税金を使って)、動いてくれる人がその要望に応える。それが仕事だ。そうやって、かしずいてもらうことに喜んでいるうちに、気づけば(気づかないかもしれないが)、自分の意志で何一つできず、病院や施設のベッドで拘束されているかもしれない。炭鉱のカナリアのごとく警告を発し続けたけれど、カナリアに「うるさい」と言って黙らせ、そんなことよりこちらの”要望”を聞けと言う。
そんな愚民世界のルールには従わない。
だから、私は逃げる。
クールに割り切っていかなきゃね。選別が行われて、もう住んでいる世界が違うのだから。ようやく、感情レベルでこれを落とし込むことができるようになった。