柿喰う客『御披楽喜』
柿喰う客『御披楽喜』
作・演出 中屋敷法人
@本多劇場 2019/09/13-23
9/15(日)昼公演を見た!
むき出しの舞台、静かに流れ続けるクラシック、中央に置かれたスピーカーと灯体、ふらっと現れる喪服に無を包んだ人々
それが一瞬で言葉の雨あられに砕かれる。
あぁこれこれ、これを見にきたんだよと口角をあげずにはいられない怒涛の冒頭。音響照明美術には頼らない、あくまでも役者の身体を削って作品を作るスタンス。好きだ。
冒頭なんかは特に、13人が一気に早口に台詞をまくし立てるものだからなにを言っているのか聞き取ることが困難。通常のスピードであれば30分程度かかるエピソードの分量はそのままに、4分に濃縮して伝えるなんて狂気の沙汰。役者さんの滑舌どうなってんだ......ある程度内容拾えてしまうことにまず驚いてしまう。
そんな異常な情報量に振り落とされないように耳を傾け凝視させられてしまうほどの言葉のエネルギー。それを感じさせてくれる作品を作る団体だ。
この団体の公演を見るといつも、舞台上とセッションするような心持ちになる。舞台上から放たれる言葉を逃すまいと受け止め、それによって自分の中に生まれた感情や蘇った知識と向き合い、作品の本質を探る。次は何が来る?あなたはどうするんだ?そうきたか、じゃあこれだな...........そうやってコミュニケーションをとっていく心持ち。しこたま頭を使いまくって観劇後はどっと睡魔が襲ってくるけれど、なんだかそれも含めて柿喰う客だなあと思う笑
しかしまあ今作を見て感じたのは、振り落とされてしまったなあというところ。
13人の語りが入り乱れ、ときにはすでに逝去している蛇目先生までもが乱入、時系列もごちゃ混ぜ。あれ?これは結局のところ、どこまでが比良木の創作物でどこからが現実なんだと混乱。ところでこの話は終わったのか?結局なんだったんだこれはあのエピソードもこのエピソードも本筋....ではないかもしれない?と思ってしまうくらい。ものすごい煙に巻かれている。でも不思議なのがそれでも心が動いで体が熱くなってしまったこと。面白いんだよなあ。どう感じるかも自由なのかもしれない。振り落とされるのもまたひとつの見方として正解なのかもしれない。これもただの素人の思考放棄的な考え方でしかないのかもしれないけど。どうなんだーーー!!!
解をすぐ欲しがってしまうのは悪い癖だ。大人しく演出の掌の上で転がるしかない....
とりあえず前回公演『美少年』の円盤でも眺めながらアートについて考えよかな。最後で投げかけられた問い、「身体とは何か」「劇場はなぜ劇場であることをやめないのか」、考えると結構面白い議題よね。マクルーハンの身体の拡張としてのメディアとか軽率に思い出した。
自分が大学で勉強しているのが表象文化論ということもあって、表象ワードに引っかかってしまったし、最近気づいたわたしの、終わりを怖がって人間関係を始められない傾向や、出会ってしまった関係は無理にでも続けようとしてしまう傾向が、田中穂先さん演じる戸白の感性を版画にとじこめようとする試みにリンクするところがあって、なんか引っかかってしまったな。こうして観劇録を取ってるのもその傾向の表れの一種だし。こういうとこに自分の癖が出てしまうのも面白かった。
もっといろいろ考えながら見てた気がするけど情報量が膨大で取りこぼしてしまっているような気しかしない。
今回はこの辺にしとこ。予定空けばおかわりしにいきたいな〜