わたしと霊性|第3話 幼少期の不思議な遊びと自分セラピー
生後一年にして人生の「再スタート」を切った僕だったが、その後は元気にすくすくと育っていった。
特段体が弱いなんていう事もなく、同世代の子供たちと一緒に、毎日日が暮れるまで力いっぱいに遊んだ。
一見特異な点はなかった様にも思うが、「一人遊び」も大好きだった僕は、今考えると「不思議な遊び」をしていたのかもしれない。
それは次の様な遊びである。
◆「天地を逆にする遊び」
「建物」の中に入ったら「天地」を想像の中で逆転させて思い描いて、イメージの中で天井を歩くという遊び。そうすることで「地面」は「天井」になり「天井」は「地面」になって、不思議な世界を味わうことが出来た。
ちなみにこの遊びは今でも癖でよくやってしまいます。初めて入る建物があったら、まず「天地」を逆にして天井を歩いてみる。その際、足裏で感じる天井(地面)の素材感・感触もリアルに想像する。配管が在る天井を歩く時なんかは特に面白い景色が見られます。これをやることで「空間全体」を一瞬で隅々まで捉え味わうことが出来ます。
ちなみにこの遊びにかかる所要時間は「3秒」くらいです。ほんの3秒なので、誰にもそんな思考をしていると悟られることはありません。3秒で空間と遊び、空間と仲良くなります。
◆「様々な生き物の目から景色を見る遊び」
これは目の前にいる鳥、犬、猫、虫。それぞれの生き物の目に「自分の目の機能」を移して、「そこにいる生きものの目から見える景色を楽しむ」という遊び。
例えば、大空を舞っている鳥に意識を向けて「自分の目の機能」を移すと、鳥の目からしか見ることが出来ない視野の景色が広がった。そうすることで高い木を上から見下ろすことが出来たり、鳥が飛ぶ高速のスピード感を味わいながら移り変わる広大な景色を楽しむことが出来た。
また、地を這っている虫に意識を向けて「自分の目の機能」を移すと、目線が限りなく「地」に近くなって、全てが巨大に見える世界が広がった。自分という存在を「虫サイズ」に小さくして見る世界は、雑草までが大木の様な迫力があって、全てが瑞々しい生命力に満ち溢れた世界に感じた。
この遊びを通して見えた景色というのは、あくまで「自分が想像で思い描いた景色」でしかないのかもしれません。しかし、普段から当たり前のようにやっていたので、意識すれば一瞬でそのような景色を見ることが出来たし、非常にリアリティのある景色を楽しむことが出来ました。
◆「石の中に入る遊び」
子供の頃、僕はとにかく石が大好きで、朝から日が暮れるまで石を眺めていることも少なくありませんでした。実家の庭には祖父が山から取り寄せたたくさんの種類の石があり、一つ一つの石を手に取っては、その石の美しさを感じていました。
これは前述の「様々な生き物の目から景色を見る遊び」にも通じる遊びだと思います。子供の頃の僕は一つ一つの石の中に「それぞれ異なった広大な宇宙」が存在しているのを感じていました。この時、他の生きものともそうですが、石と自分との「存在の境界線」は曖昧でした。それはシンプルに「この世界に生きる生命」という共通点において、両者は非常に繋がりが深く、それを「隔てる壁」も当時はまるで感じていなかった様に思います。
僕は気に入った石を見つけると、その石を手に取り、「石の中に内包された宇宙空間」の中に「意識体」として入って行きました。こうやって文章で説明すると何か高度なことをやっている様ですが、実際は子供なので複雑な思考をしている訳ではなく、感覚で一瞬で出来ることでした。
石の中には、宇宙と同じ規模感の「その石独自の宇宙空間」がどこまでもどこまでも広がっていました。一つとして同じ石が無いように、一つとして同じ「石の中の宇宙」はなく、その宇宙空間の中には、様々な色の雲母(鉱物の一種)などが星の様に煌めいていてとても美しかったです。
そうやって石の魅力に取り憑かれていた僕でしたが、ある時祖母に「石を家の中に持ってくると火事になるよ!石は元の場所に戻しなさい!」と叱られて、それまでに集めたとっておきの「石コレクション」を手放す日がやって来ます。その一件を経て、徐々に石に触れることはなくなっていきました。
しかし、それから約30年後。僕は塗料メーカーの「カラー開発部」に務め、毎日様々な色の雲母(鉱物の一種)を調合して色を作るようになります。それが昨年まで勤めた前職の仕事です。
不思議な因果・縁というものはやはり有りますね。
改めて振り返ると、僕が幼少期に行っていた「不思議な一人遊び」は、すべて「目に見えない世界を観る遊び」であり、「目に見えない世界と繋がる遊び」であった様に思います。
当時何も意識せずに自然にやっていたことですが、その経験が自分の大きな糧になっていたと今は感じます。
子供の頃というのは「社会の常識とされるもの」でがんじがらめではないですから、発想が本当に柔軟です。よくよく振り返ってみると、あなたも何か「不思議な一人遊び」をしていたことはないでしょうか?
大人になってから、そんな子供の頃していた遊びを思い出したり「子供心」を思い出すことは、非常に価値のあることだと僕は思います。
今結婚していて「夫」や「妻」になっている人、子供がいて「親」になっている人、会社で「役員」になっている人、境遇は様々ですが、あらゆる役職や肩書きを取っ払った「元の自分」も、確実に「今の自分」の中に存在しているわけで、時々にはそんな「元の自分」も、抱きしめてあげたいものです。
生きている上で「役」が付き、その「責任」を果たすことは大切なことでもありますが、それに振り回されて「元の自分」を見失ってしまっては不幸だと思います。
自分は何の為に生きているのか。何を幸せと感じ、何を心地良いと感じる人間なのか。
「元の自分」は、きっとそれを知っていると思います。
僕は時々「生まれたばかりの自分の写真」を眺めることがあります。
そして「生まれたばかりの自分」を客観的に見て、
「この子に今どんなことをしてあげたいか」
「どんな人生を歩ませてあげたいか」
「どんなことをするべきでないか」
「周囲の人に対してどうしていくべきか」
を考えて、これから自分が成すべきことを考えます。
そうすることで、「ねじれや迷いのない自分の指針」が立つ様に思います。
これは僕が自分で編み出した「自分一人だけで出来る自分セラピー」です。
進む道に「迷い」や「不安」があるような時には有効だと思うので、是非試してみてくださいね。
幼少期の一人遊びの話から大分脱線した様にも思いますが、「三つ子の魂百まで」と言いますから、時々にはそこに立ち返ってみるのも、良い時間になるのではないかと思います。
つづく
Moomin / Rise Again
◆「わたしと霊性」第1話はこちらから
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