わたしと霊性|第1話 霊性
みなさん、こんにちは。
本日より新シリーズを展開致します。
新シリーズのタイトルは、題して「わたしと霊性」です。
これは言わば「お腹に光の玉が入った話」へと続いていく物語であり、僕という存在の原点からを綴っていく物語です。
タイトルに在る「霊性」という言葉は、何かに「信仰心」を持って生きている人でない限りは、馴染みのない言葉かもしれません。
ちなみに僕は無宗教であり、特定のものを信仰する団体にも所属していません。
しかしあえて言うならば、この世の全てのものに「神」が宿っていて、「あらゆる存在」が「自分自身の存在の表れ」であり、「自分自身の存在」もまた「あらゆる存在の表れ」であるという意識を持って生きてきました。
そして図らずも、これまで数多くの不思議な体験をしてきた僕にとって「霊性」というものは、日々意識せざるをえない言葉でした。
僕は幼い頃から、
「生きていることはとても神秘的で奇跡的なことだ」
という概念を持って生きて来たので、この世の全てのものごとが、それがどんな出来事であれ「奇跡」だと思って生きてきました。
自分が病気をしたり、怪我をしたり、一見ネガティブに感じられる出来事であってもです。
言い換えるならばそれは「ポジティブ・ネガティブの概念を超越した意味のある出来事」だと捉えてきたのです。
空を見上げればいつも太陽や月、星があり、地上では日々果てしない生命の循環が行なわれている。その不思議を想うだけで、「自分が今この世に存在して生きているという現象」は、なんて奇跡的で神秘的なことなんだろうと思わずにはいられませんでした。それは年齢を重ねて、何歳になっても思いますし、日々その想いを強く感じます。
自分たちは、人間の知覚では到底理解し切れない次元の世界を生きていると思うのです。
その様な世の中であるのに、「目に見えない世界の話」は、いつの時代においても、不思議と話すことをタブー視されてきました。
しかし、いつしか「スピリチュアル」という言葉が台頭し、今では随分と市民権を得た様に感じています。
「目に見えない世界」のことを伝える人の中には、「霊性」を「スピリチュアリティ」とし、「目に見えない世界全般の話」を「スピリチュアル」という言葉で表現される方も少なくありません。むしろ現在は後者が主流であり、僕自身も「スピリチュアル」という言葉を使うことがあります。
どちらの言葉を選ぶかは個人の認識と好みの問題でしかないと思うですが、僕はあえて「霊性」という言葉を選んでタイトルに致しました。
「スピリチュアル」という言葉が台頭した背景には、メディアの影響力がとても大きかったと思うのですが、一気にシーンが膨らんだという「ポジティブの側面」があった一方、「胡散臭い」「詐欺」「人を騙す怪しい新興宗教」と言った「ネガティブな側面」も大きく内包しながら成長した言葉・概念でもあったと思います。
世の中は全て「陰と陽」で成り立っていますから、当たり前と言えば当たり前なのですが、「スピリチュアル」という言葉を聞いただけで「拒否反応」が出る方も一定数いらっしゃいます。
それがいい悪いという話ではなくて、その事実が「スピリチュアル」という言葉の「ネガティブな側面」の一端を表しており、こうやって「目に見えない世界」の話をしている僕ですら、「スピリチュアル」という言葉に対してマイナスなイメージを拭い切れません。
僕は2020年に、自分自身のこれまでの体験を人にお伝えしていく決意を固めて、原稿を書き始めました。
その際、もう既に「目に見えない世界」のことを伝える活動をしている人たちは、どのような伝え方をしていて、全体がどのようなシーンになっているのだろうと思い、その世界、謂わゆる「スピリチュアルの世界」の一端を覗いてみたのですが、そこにはとてもショッキングな世界が広がっていました。
「私こそが霊格の高い本物の霊能力者であり、他は全てレベルの低い偽物です!」
「これを信じれば絶対に成功者になれます!100%幸せになれます!」
「〇〇こそが真理であり、私だけが正しいことを言っています。信じない人は不幸になります!」
などなど、
僕が「霊性」というものに対して抱いていた「神聖さ」とは、かけ離れた世界が果てしなく広がっているのでした。
まずそこには、人を想う「優しさ」や「愛」「思いやり」が感じられません。
それは非常に自己中心的で、「権力」が着いて回るような世界であり、他人の弱みに漬け込んで自分の考えを強要し、「支配・洗脳」していく様な危険ささえも感じるものでした。
本来「スピリチュアル」という言葉は、「神聖さ」を表す言葉であって「言葉自体」は何も悪くありません。しかし、良くない使われ方をされ過ぎている為に、大分「パブリックイメージ」が悪くなっているのを感じざるを得ませんでした。
もちろん、このような用いられ方はこの世界の一端の話であり、中にはたくさんの人の役に立つ様な活動をされ、素晴らしい情報発信をされている方も多く見受けられます。
僕の友人、特にアーティストの友人の中にも「目に見えない世界」に精通していて、「スピリチュアル」という言葉を選んで情報発信している仲間もいます。
結局は自分自身がその言葉をどの様に認識し、どの様な「想い」を乗せて発信するか、そして受け取るかに尽きると思うのですが、僕自身は「霊性」という言葉がしっくりと来ました。
「霊性」は、「日々の成長で自分が培ってきたもの・感性・在り方」でもあり(これは完全に僕独自の解釈です)、それは誰もが当たり前に持っているものだと思います。
何か高尚な世界をイメージされる方もいらっしゃいますが、僕が話しているのはごく日常的な話であり、「気質や在り方」の話です。
そしてそれは「十人十色」に色も背景も質も異なっていて、それを各々が磨いて研ぎ澄ませていくこと、輝かせながらお互いに協力して世の中を良くしていくということが、人間が生きることにおいて大切なことの様に思うのです。
なので僕が「スピリチュアルな世界」の一端を覗いた時に感じた「ネガティブな側面」。「自分が正しい」「自分が上だ」「自分こそが選ばれた特別な人間だ」みたいな奢った姿勢から発せられるものには、全く共感が出来ませんし、それが本当に「スピリチュアル」なのだろうか?という疑問が尽きません。
それでも需要がなければ供給は生まれませんから、それが「ポジティブな側面」として働いている世界があるのも確かなのだと思いますが、シンプルに言って僕好みの世界ではありません。
その様な想いもあって、自分自身がこれまで捉えてきた「目に見えない世界のこと」と、世に在る「スピリチュアルな世界のこと」を混ぜずに、あえて遠ざけてきた背景が在るのも事実です。
なので「スピリチュアルな世界」に関する「基礎知識」のようなものがあるとすれば、僕が知らないことはたくさん在るでしょう。
そしてそれらをたくさん学ばれて来た方からすれば、「それは違う!」と指摘したくなるようなことも発言するかもしれません。
それに関しては僕の知識不足や勉強不足、または感じ方の違いによるものだと思いますので、どうぞご容赦ください。
あくまで僕が発信する内容は、本やネット上に載っている情報ではなくて、「実体験を通して自分が感じたこと」を綴ってまいります。そこが僕のnoteの「核」になりますので、ご理解頂ければ幸いです。
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さて、話は変わりますが、昨年末に会社員を辞めてから、現在で2ヶ月以上が経過しました。
仕事を辞めてからというもの、これまで向き合えなかったこと・流してきてしまった様なものごととしっかり向き合う事が出来て、日々深い幸せを噛み締めながら生活しています。
「忙しい」という漢字は「こころをなくす」と書きますが、会社という場所で仕事をしていた間、いかに自分が「我」を忘れて「本来の心」を無くしていたかということを痛感させられました。
仕事が嫌になって辞めたわけではないので、会社には感謝しかありませんが、おじいさんになるまで「人生の時間の大半」を会社に費やすのかと思ったら、それは自分の生き方としては違うなと思いました。
自分自身や家族にとって、社会に対してまでと言ったら大袈裟に聞こえるかもしれませんが、自分なりに自分自身の価値を最大限に活かせる生き方がしたいと思ったのです。
それが日々を丁寧に生きることであり、このnoteを通して自分なりの情報発信をしていくことであり、絵を描いて人に喜んで頂く道でした。
おかげさまで、今は朝から晩まで自分のやりたいこと、情熱を燃やせることをやっています。すると次第に穏やかで無邪気な、本来の自分が還って来ました。
自分は自分であって、他の誰とも比べなくていい。
こうやって情報発信をする前までは、「目に見えない世界」のことを、「人並み以上に感じてしまう自分」を無いものにしたり、ある種「コンプレックス」の様に扱ってきてしまった部分がありました。
あえて裏話をすると、このnoteを立ち上げて情報発信を始める際も、「本当にこんなことを書いても大丈夫だろうか」と、日々吐き気がする程に葛藤しながら、恐る恐るスタートしたのです。
それぐらいに、今まで隠してきた「本来の自分」を明かしていくということが恐怖でした。
しかしそれと同時に、これまで無いものにしてきた自分の大きさも感じて、自分自身に対して、本当に失礼な生き方をしてきてしまったと深く反省しました。
恐怖の一線を乗り越えた今は、
「自分が自分であることに誇りを持って生きよう」
という想いを強く抱いています。
角度を変えて見れば、「自分」は「自分」だけれども、そもそも「自分というもの」は「たくさんの先祖たちから受け継いだもの」でもあり、同時に「宇宙からの授かりもの」でもあると思います。
それが与えられた「個」となり「違い」となって表れているのではないでしょうか。
そんな愛の籠った「授かりもの・宝物」を蔑ろにしたら、きっとバチが当たりますよね。
与えられた「個・違い」に感謝して、これまでとこれからの「自分の人生の物語」を愛し抜き、楽しみ尽くす。
そこに「魂」としての深い「幸せ」や「光明」が在るように今は感じています。
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◆僕がこのnoteを通じて実現したいこと
僕がこのnoteを通じて実現したいことは大きく分けて二つあります。
一つ目は、自分自身の存在を「マイノリティ」だと感じて、日々を心苦しく生きている人たちの心を、無限に広く解放したいということです。
人種の問題であったり、性の問題であったり、病や障害の問題であったり、抱えている問題は人それぞれですが、今の時代は一人一人が何かしらの生き辛さを抱えて生きている様に思います。
僕個人の話で言うと「人一倍目に見えない世界と繋がりやすい」ということが「生き辛さ」を抱える部分でした。
「そんなものは気にしなければいいよ!」とか、「気の持ち様だよ!」
と言われたら、それまでなのかもしれませんが、苦しみを抱えている当事者からするとそうはいきませんよね。
僕の場合は、それを共感出来る人が周りにいなかったということが、何よりの苦しみでした。
今は妻をはじめたくさんの理解者がおり、こうしてオープンに話すことが出来ていますが、それまでは自分の存在や感覚を無いものにしたり、自分の心をいつも偽って、当たり障りなく人と関わることしか出来ませんでした。
全ての人に自分を理解してほしいなんていうのはエゴであって、宇宙の構造上無理な話だと思いますが、それでも、「何かしらの生き辛さ」を抱えた人たちが「生き辛さ」を抱えなくてもいい世の中になったら、今よりもっと素敵で、みんなが幸せですよね。
「マイノリティ」(少数者・少数派)であるが故に、差別や偏見が生まれる。
きっとそれは、その「マイノリティ」についての「情報」を、多くの人が知らないからです。
だとしたら、その「マイノリティ」に関する「情報」が多くの人に知られたなら、それは「マイノリティ」ではなくなりますよね。
ものごとは何でもポジティブとネガティブの両局面がありますから、逆にその「マイノリティ(またはコンプレックス)」な部分を自分の「誇り」や「強さ」に変えて、ポジティブに転換してみたらどうだろうか。
僕に置き換えると「人一倍目に見えない世界と繋がりやすいこと」を「誇り」や「強さ」に変えて、それがどういうことなのかを、知らない人たちに知ってもらう活動をする。まさに今このnoteでやっていることがそれにあたりますが、それをやることによって、「霊感を持っている」ということに「ポジティブなイメージ」を持つ人が増えれば、一体どんな世の中になるだろうと、考えただけでワクワクします。
そもそも「霊感」は、特別な人が持っているものではなく、全ての人が持っている感覚だと思うのです。
日常で使う言葉の中に「気(氣)」という文字がたくさん入っている時点で、「日本人」は特にそこに精通した人種であることが表されていると思うのですが、「霊感」を持っているということが当たり前の世の中になったらいいなと、個人的には思っています。
ここまで複雑化した世の中で、文化や民族の違い、各々のマイノリティな感覚の違いも「いいね」と言って認め合い、受け止められる「包容力のある世の中」、そして「包容力のある人間」。それこそが、これから目指すべき新しい世の中の形であり、目指すべき人間の姿なのではないかと感じています。
その為にはまずお互いを「知る」こと。
そこで「違い」や「差」を知って、「面白いもの」や「良いもの」を受け入れ合う。そうなっていくことで、「あらゆる人が当たり前に存在出来る文化」が出来上がっていき、同時に「人間の進化」もそこに在るように思います。
何にも言えることだと思いますが、「知る」ということ、「知ろうとする」ことが「愛の始まり」だと思います。
人種も性別も感覚も超えて、「愛ベース」で繋がり合い、全ての人間が個性を尊重し合える世の中。そんな「器の大きな世の中」を作っていく為に、僕は自分の出来ることをやっていきたいと思っています。
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僕がこのnoteで実現したいことの二つ目は、自分が「目に見えない世界の入り口」となり、目に見えないものごとに感謝出来る世の中を創っていくことです。
はじめに「想像」をしなければ「創造」が出来ない様に、全ての「行動」「ものごと」は、「目に見えない所」から始まっています。
その「基本原理」が考えの根底にないと、あらゆることが捻じ曲がって考えられ、それが原因で世の中が抱えるあらゆる問題を生んでいるように思うのです。
例えば、僕らが日々食べているものは「生きものの命」ですし、僕が大好きな「本」も、元々は「木」であり「命」です。
食べる時には「いただきます」と言うので、「自分の命に成ってくれる命」への感謝はしやすいと思いますが、本を手にとって、
「元々は自然の中で風に揺れていた木(命)だった」
と、想像する人は少ないと思います。
けれども元々両方が「生きていた命」だというのは事実であって、そこへの感謝であったり、意識が無くなってしまうと、元々「食べもの」だった様な、元々「本」だった様な「誤った認識」になってしまい、そうなってくるといろいろなことが捻じ曲がったまま考えられていき、後々になって問題を生んでいきそうなのは必至ですよね。
食べものになってくれた生きものも、本になってくれた木も、みんな人間が生きる為に死んでくれているというのが事実です。「あらゆる生きものの死」の上に「自分の生」が成り立っているという感覚は、人間として忘れてはならない感覚だと思うし、その上で自分がどう生きるのかと考えるのが真っ当なのではないかと、個人的には思っています。
決して難しいことを考えるわけではなくて、あらゆるものがどこから来て存在しているのか、その「原点」に立ち返っていきたい。そして可能な限り「自分の生」を支えてくれているあらゆるものに感謝して、「愛の眼差し」を向けていきたい。
エゴかもしれないけれど、僕自身はそれをやっていくことで世の中がより素敵なものになると信じているので、そこに対して自分の出来ることをやっていこうと思っています。
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それと、「自分が目に見えない世界の入り口になる」と言ったのには、もう一つだけ理由があります。
それは僕の様な不思議な体験をする人たちが、今後たくさん増えて来るだろうという自分なりの予測からです。
そこには明確な根拠は一切無く、時代の流れを受け止めながら、自分が肌で感じたことでしかありません。
自分も昔そうだった様に、これから思いがけず不思議な体験をされる方達は、その出来事によってこれまでの「価値観」が大きく揺さぶられて、混乱したり葛藤したり不安になったりすると思うのです。
その時に、同じ様な不思議な体験をしている人の手記があれば、「自分がおかしくなったんじゃないんだ」「こんなふうに感じたのは自分一人じゃなかったんだ」と、安心することが出来ると思うのです。
この手の体験はマイノリティであるが故、「話をしても理解してもらえないんじゃないか」とか「拒絶されてしまうんじゃないか」とか「あらぬ勘違いをされてしまうんじゃないか」とか、人に話すにはハードルの高い話であったりします。
僕は20代前半ぐらいから突如として不思議な体験をするようになっていったのですが、実際に僕自身も、周りに自分と同じ様な体験をしている人が全くいなかったので、誰にも相談出来ませんし、どんどん自分を押し殺して生きていくようになっていました。
なので自分の体験記を綴ることで、誰かのお役に立てるのではないかと思ったのです。
有難いことにnoteを開設してから、実際に様々な方からご連絡を頂いています。
ご連絡を頂いた中には、
「体験したことを誰にも話せず、共感できる方もおらず、口を閉ざしていたけれど、実は同じ様な体験をしていて、「自分を信じていいんだ!」と心がかる〜くなりました。」
という嬉しいメッセージもありました。
それは本当に嬉しいご報告でした♪
ありがとうございました!
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非常に長い文章になってしまいましたが、以上が「わたしと霊性」のプロローグとなります。
次回から、
「こんなに感動する面白い話は今までの人生で聞いた事がない!!!」
と、友人たちが口を揃えて言ってくれた「僕のこれまでの不思議な体験記」を綴ってまいります。
友人たちは、
「トワ君の人生はいつか映画にしたほうがいいよ!!!」
とも本気で言ってくれました。
目を輝かせながらそう言ってくれた友人たちの笑顔が、今も心に焼き付いています。
その輝いた笑顔を見た時に、僕の「不思議体験の話」の中には何かしらの「ポジティブなエネルギー」が入っていて、「人を笑顔に出来る力」が在るんだと気付いたのです。その瞬間は、今まで「コンプレックス」として隠していたものが「宝物と誇り」へと変わった瞬間でもありました。
僕の話をポジティブに受け止めてくれた友人たちには、心から感謝しています。
本当にありがとう。
大分話のハードルを上げる様なことを言ってしまいましたが、実際に言われたことなので、それも良いプレッシャーに変えて次回から綴ってまいります。
今回も長い文章を読んで頂き、ありがとうございました。
それでは、乞うご期待ください!
つづく
Nina Simone / Feelings (Montreux Jazz Festival)
自分が持っている「霊性」とは何か、考えてみよう🏃♂️✨