彼らの問いが、僕の頭の中でこだまし続ける限りは―映画『怪物』感想―
「かいぶつだーれだ」
怪物、誰だ。
怪物とは、誰だ。怪物とは、何だ。
怪物。
自分にとって、理解し難い存在のこと。
頭に““豚の脳””が入っていて、””人間””である自分とは全く異なる思考をする存在のこと。
だったとしたら。
僕らにとって、湊と依里は、””怪物””だろうか。
湊の母は、””怪物””だろうか。
保利先生は、””怪物””だろうか。
校長先生は、””怪物””だろうか。
違うと思う。
では、依里の父親は?
二次性徴を迎えてすぐに同性愛的な傾向を色濃く見せ始めている息子のことを””怪物””呼ばわりし抑圧する、妻に逃げられた酒浸りの落ち目の男は?彼は””怪物””なのか?
僕らは、彼のことを、””怪物””呼ばわりできるのか?
それはとても難しいことだと思う。
もしも僕たちが、彼と同じ状況に置かれたら。
両の腕で我が子のことをそっと抱きしめられるだろうか。
我が子に「男らしいとか女らしいとかそんなことはどうだっていいんだよ。おまえはおまえらしく生きていけば良いんだ」と言えるだろうか。
我が子に「おまえは、誰にでも手に入る普通の幸せを享受することができる、ふつうの人間なんだよ」と言えるだろうか。
これらの問いに、すべて、胸を張って「はい」と答えられるだろうか。
僕は自信が無い。
なぜそうなるのか。
僕がヘテロセクシュアル・シスジェンダーと自認しているから、そうでないセクシュアリティの人たちのことを異物として捉えている、みたいな、そういうことじゃない、気がする(上手く言えないけれど)。
というのも。
僕は前日に坂元裕二が書いた確定稿をもとにしたシナリオブックを購入し、読み終えてから鑑賞した。
だから、シナリオブックに掲載されていた確定稿に存在したシーンのいくつかが公開された映画本編ではカットされていることに気づいた。
未公開シーンのほとんどは大人(=湊の母、保利先生、校長先生)にまつわる場面だったので、本作の主題である子どもたちの描写にはあまり影響していない。子どもたちパートでも多少のカットはあったが、基本的には台詞の切り貼りで、場面そのものが省略されている箇所はほとんどなかった。
しかし、一つだけ、子どもたち視点の(おそらく)重要な場面が削られていた。
このシーンがカットされたのはおそらく、この場面で用いられている言葉があまりにも””直截的すぎる””がゆえに映画が説教くさくなってしまうと是枝監督が考えたのだろう(と僕は推察する)。
その場面の脚本を引用する。
湊と依里の関係性に気づいている素振りを見せる””ませた””同級生の美青と湊が駅近くのファーストフード店でジュースを飲みながら話すシーン。
僕らが湊と依里に向ける眼差しは、美青と同じものになっていないだろうか。
映画の描写ではわかりづらいが、シナリオブックにおいては美青が小5にして性描写のあるBL漫画を読んでいることが明示されている。
そんな美青が湊と依里の関係性を「尊いもの」だと言い表す。そしてカミングアウトを促す。この残酷さたるや。
僕たちは、自分の性の在り方に「他の人と違う」という悩みを抱えている人たちのことを””消費””しているのではないか?
その””消費””的な観点からしか、””正しい””ことを言えなくなっているのではないか?
坂元裕二がこの場面で描きたかったのは、こういう問いだったのではないだろうか。
この場面を踏まえて、もう一度さっきの問いに立ち返りたい。
僕らは、この映画のなかで生きている人たちのことを、””怪物””呼ばわりできるのか?
映画のラストシーン。シナリオブックにはこう書かれている。
そう。僕たちは問われているのだ。
彼らに。
「かいぶつだーれだ」
と。
ありがちな答えだけれど、こう言うしか無いだろう。
「ひょっとしたら、僕こそ怪物なのかもしれないね」
『怪物』は、僕たちにこの問いを突き付けるための映画だった。
シナリオブックに根差して感想を書いてしまった。
こうなると、「映画の映像など要らなかったのでは?」「坂元裕二が小説としてこの物語を世に出せばよかったのでは?」と言われてしまいそうだけれど、僕はそんな風には思わなかった。
坂元裕二の問いは、
・川村元気らの企画と
・坂本龍一の音楽と
・是枝裕和をはじめとする制作陣のつくる映像と
・黒川想矢と柊木陽太という素晴らしい主演俳優とその脇を固める安藤サクラ、永山瑛太、田中裕子ら助演俳優たちの表現
によってこそ、これだけの強烈な力を持つものになったのだから。
そもそも坂元の脚本は「映像作品として世に出る」ことを前提に書き上げられたものだし、物語のなかで問いを突き付ける主体となる湊と依里たちの人物像は是枝監督と黒川くん柊木くんたち俳優陣が撮影のなかで作り上げていったものだろう。この映画にまつわる全ての音が合わさって、『怪物』の物語が強烈な問いを伴う協和音として鳴り響くのである。
劇場で映画本編を鑑賞して、そのことがよくわかった。
この映画の物語の描き方は本当に素晴らしい。
命の終わりと向き合うさなかだった坂本龍一にしか紡げない音。
これまでずっと、「社会」「家族」「子ども」を描いてきた是枝監督にしか撮れない画。
黒川想矢と柊木陽太にしか表現できない感情。
それらすべてが、スクリーンを通して、僕たちに問いかけていた。
「かいぶつだーれだ」
劇場を出てからずっと、彼らの問いかける声が、僕の頭の中でこだまし続けている。
これから先もずっと、こだまし続けるかもしれない。
性だけじゃない。政治思想、宗教、社会的地位、国籍、あらゆる分断。
分断されたその先にいる人たちのことを、つい””怪物””呼ばわりしてしまう僕らがいる。
僕らはこういう愚かな心掛けを、本気で恥じて改めることができるだろうか。
わからない。
わからないけれど、
彼らの声が僕らの頭の中でこだまし続けている限りは。
この頭が、””豚の脳””に成り下がることなく、自分らしくいられる、
かもしれない。
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