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社会不適合になりかけたときに、考えたこと

大学では吟遊詩人過ぎて変わったやつって思われたし、しかも短編映画で表現することも尖っていたから、ある意味一目置かれていた(と、大学の友人に言われた)。

それが就職の面接の場面で、社会ではまず全く通用しないということを知らされた。自分の作った映像作品を面接で見せてもダメだったし、面接用に新しく作ったりもした。それで、「あ、これ通用しないんだ」と思って、考えを変えてしゃべりだけでアピールしようと考え始めて、そこからどんどん社会というか、ビジネスの歯車になる準備を着々と始めていたんだと思う。僕は、就職氷河期っていわれた世代だから必死だった。
そのうち、奇跡的に印刷会社から内定もらって、次にCM制作会社から内定をもらえた。
あの時の感覚は、面接官とのキャッボールが気持ちよく続いたし、「面接通ったかも」という感覚はありました。やっぱり今思えば、ビジネスって独りよがりの表現というより、コミュニケーションなんだろうなと思う。
その奇跡的なコミュニケーションは入社後、化けの皮が剥がれて、ダメな新人とレッテル貼られて、歯を食いしばって、その結果、社会の歯車になったと思いましたけどね。

むしろ、普通の人になって、社会に合うように性格も修正していったのが、事実です。ただ、その後、尖ってた部分と、その社会とのコミュニケーションができるようになった自分をミックスできるのか模索しているのが、今の自分かもです。

つまり、社会に揉まれてダメなレッテルを貼られたけど、這い上がってコミュニケーションができる自分と、大学の頃の尖った表現をする自分の両方の武器を持っているわけだから、それを扱えるか、今、戦っているところです。

表現や発信する側に走った人は、社会不適合だけれど、そのままそれを突き詰めるか。

表現だけでなく、人とのコミュニケーションに長けている人を目指すのか。

前者は、アーティスト、活動家、とかになるのかも。

後者は、プランナー、ディレクター、クリエィターなのかも。

僕の場合は、最初はアーティストを目指し(ただ、当時自分ではそう思っていなかったけど、今思えばそれを目指していたかも。アーティストという言葉を使うこと自体憚れる・・。)、就職とともに、後者のディレクターを目指して今があります。途中、アーティストでも、ディレクターでもなんでもない、ただの社会の歯車の時間があったけど。世の中的には下積みと言われればそれまですが。
ただ、その時間が長かった。(詳しくは→)

そこから這い上がって今、ディレクターをやって、
結果的に今はそのアーティスト部分も取り入れている。
結局ありきたりだけど、バランスが大事だってことなんですよね。


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