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私という物語の「書き手」であれ。
最近読んだ本の筆者が、インタビューでこう語っていた。
「物語の結末は決めていない。
書いていったら、結果としてこうゆう結末になった」
面白いな。と思った。
書き手でさえ、この物語がどう展開して、どんな結末を迎えるかわからない。
これまで私は、人生を既に決められた物語を読んでいるイメージで生きてきた。
作者は神様だろうか。
既に完成されている自分の人生という物語を、ただ1ページずつめくっていく日々。
そう考えるのは、きっと楽だからだ。
どんなに辛いことが起きようと、これははなから決まっていた事象だと思えば、なんとか乗り切れる。
同時に、不安を鎮める効果もある。
どうせ結果なんて決まっていると思えるから、いい意味で開き直って人生を歩める。
反対に、欠点もある。
どうせ決まっているんだ。
頑張ったところで意味なんてないと、無気力に襲われる時もある。
人生の無意味感に、意味もなく押しつぶされそうな日々を過ごす。
発想を少しだけ変えてみたい。
たまには、人生の書き手として、ここから人生を描いていくんだというイメージを持っていたい。
もちろん、結末なんてわからない。
書いていくうちに、自分でも予想だにしない方向へと、物語は進んでいくのかもしれない。
だからこそ面白い。
結末がわかっている物語ほど、退屈なものはない。
今の苦しみだって、どこかで回収される伏線なのかもしれない。
あの日々があったからこそ、輝く今を味わえるんだと、そんな明るい未来が訪れるかもしれない。
読み手に回ることはいつだってできる。
だから、私は私の人生を書く側でいてみたい。
辛かったらいつだって戻ればいい。
書くということは、つまりは目の前の行動だ。
今日はジムでトレーニングをした。読書もしよう。こうして文章を書いてみよう。
全てがどこかに繋がっている。
そうして紡がれた日々が、自分という物語を生み出していく。
どんな物語になっていくのだろうか。
私は能動的に、人生の書き手でありたい。
まだまだこの人生を楽しめる。いや、楽しむんだ。そのために、書こう。人生の書き手として、強く強く日々を踏み締めていこう。