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曖昧に生きられなくて苦しむ僕らは、きっと他人よりも人生を深く味わうことができる。


大好きな作家である川上未映子さんの小説の中で、「曖昧に生きる」という表現に出会って、そのことを深掘りして考えている。

楽に軽やかに人生を楽しめている人って、実は「曖昧に」生きる天性の才能を持っているのかもしれない。
僕らのような曖昧に生きられない凡人がその天才たちを羨んだところで、何一つ目の前の問題は解決しないだろう。

だけども、トレードオフだよなとも感じる。
曖昧に生きる人生はきっと楽だけど、どこか味気ないものではないだろうか?
てか、そうじゃないと釣り合いが取れない。そうであっておくれ。

曖昧に生きられずに苦しむ僕らは、きっと人生を鮮明に味わうことができるはずで、長い目で見れば誰よりも人生を楽しめるのではないか。
うさぎと亀の話じゃないけど。
そうであって欲しい。

応急処置的に、「曖昧に生きるスキル」を身につけて、しんどい時期をやり過ごすのは大いにアリだと思う。
僕の場合は筋トレを習慣化することが、曖昧に生きるためにとても有効的だった。
筋トレして脳内をハッピーにしておけば、辛い現実も曖昧にぼやけてしまって、案外軽やかに生きていくことができる。
(反動として、思考が浅はかになって何も考えない人間に成り下がってしまうこともある。だから僕は本を読むようにしている。)

きっとなんだっていいんだ。
推しを全力で推せばいいし、登りたい山を足元だけ見つめてひたすらに登るのも良い。
一つのことに没頭している瞬間、周りを取り囲む景色は確実に曖昧になっているのだから。

曖昧に生きてみようとしながら、だけども曖昧に生きられない自分を愛し、曖昧じゃないからこそ感じられる幸せもあるのだと、そう信じて生きていられたらいい。

曖昧に生きられず苦しむあなたへ。
僕も同じです。
でもきっと僕らにしか見えない景色があるはずです。
そう信じて、死ぬまでの間をとりあえず前向いて生きていきましょう。

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