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子供がいない人生への、世間からの無言の圧力を感じてしまう。〜「犬のかたちをしているもの」を読みました〜

高瀬隼子さんの「犬のかたちをしているもの」を読んだ。

子供を産み、育てて、子供を持つ生活をすることについて深く考えさせられた。

共感したシーンがたくさんある。
他人の子供の写真を見せつけられて、コメントに困るシーンもその一つだ。

他人に子供が生まれたとかどうでもいい。
他人の子供自慢なんて聞きたくない。
虫唾が走る。

と同時に、そんな話を聞くたびに社会から置いてけぼりにされてるような焦りを感じてしまうのも、また事実だ。
どうでもいいと思い込もうとしながら、心の奥底ではきっとどうでもいいなんて思えていない。

子供を産んで育てて、社会のレールに乗っかってしまった方がいっそ楽なのかもしれない。
そこにも苦しみは確かに存在するだろうけど、今感じている苦しみは和らぐはずだし、子供を持つことではじめて感じられる喜びだってあるはずだ。

犬を飼っていて、子供を育てていない人に対する社会の目は厳しい。
と、私が勝手に思い込んでいるだけかもしれないが。
あの人たちは可哀想で惨めで、寂しい人だと思われていそうで辛い。

振り切って生きられる強さがあればいいのだけども。
そんな図太さを持ち合わせてはいない。

犬を飼っていた。ハリネズミも飼っていた。
ペットを愛していた。そんな日々は幸せだった。
子供を持つこととペットと幸せに暮らすことの間に、なぜこんなにも溝を感じてしまうのだろうか。
子供を育てている人は真っ当で、ペットと暮らす人はなんだか可哀想で。

単なる被害妄想かもしれない。
けどそんな社会の圧力みたいなものは少なからず存在していて、世間の目から私たちの人生はきっと逃れられない。

子供を作って、社会のレールに乗っかってしまいたい。
義務感みたいな、焦りみたいな。
タイムリミットもある話で、そんな現実に押しつぶされそうになりながらも、どうにか先延ばしにして深く考えないようにして日々をやり過ごしている。

本来は子供がいる人生でもいいし、別にいなくて犬と幸せに暮らす人生でもいいのだろう。
考えたってなるようにしかならない。
人生に任せてしまって、開き直って生活していけたらいい。
どっちの人生が自分には与えられるのだろうと、ワクワクしながら俯瞰して眺めていればいい。

子供を産んで育てている人に感じる嫌悪感は、自分の中に存在する羨ましさなのだろうか。
どうでもいいと投げやりなふりをしながら、社会のレールに乗っかりたい、普通の人間として生きていたいという傲慢な気持ちが心を満たしているのではないか。

子育てしてます。苦労してます。
充実してますって顔をしている人たちが、なんかムカつく。
でもそれが社会の大きな流れだから仕方ない。
そこに逆流して向かっていくのは無能で無謀な行為だ。
無言の圧力の流れるプールに、私は流されて生きていくしかない。

子供を産んで育てたい。
そんな綺麗な気持ちから生まれた命はきっと素敵だろう。

子供を産んで育てなきゃ。
そんな義務感から生まれた命だって、別にあってもいいんじゃないか。

社会の目を気にしてしまう。
そんな弱さから生まれた命。
その繋がりから感じる幸せ。
私の人生らしくて、なんだか素敵じゃないか。

一回きりの人生だから。
経験したことないこと、経験するってのもいいよなと思えている。
犬と暮らしたことはある。
子供を産んで育てて、子供を持つ人生をまだ経験していない。

経験してないから、経験してみるか。
そのくらいの気軽さでいい。軽いノリでいい。

世間の目を気にしてしまう自分を見つけられた。
きっと私は子供を持つ人生を歩んでみたいんだ。
本当の気持ちに気づけた気がする。
犬を愛したように、ハリネズミを愛したように、妻と子供を愛しながら、そんな自分と自分の人生を愛しながら、与えられた日々を楽しんでいけたらいいなと思う。

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