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人生は「なるようになる」ようになることが既に決められている、そんな物語。
人生は決まっている。
そう考えると、私の場合は生きるのが楽になる。
なるようになる。
なるようにしかならない。
どうせ大丈夫。
どうせ決まってるから、大丈夫。
悩む必要なんてない。
いや、今こうして悩みを抱えることでさえ、人生において決められていたシナリオだ。
その上で、どう楽しんでいこうか。
小説を読むかのように、人生に向き合っていくと良い。
結末は決まっている。
ここからどう展開していくのかも、既に決まっている。
でも、先を知らないから今日という1ページを楽しむことができる。
さて、ここからどう進んでいくのだろうね?と、他人事のように人生を「観て」楽しんでいく。
「ま、いっか」の精神だ。
どうせ決まっている人生だ。
小さなことに執着して、クヨクヨしているのは勿体無い。
ま、どうせなるようになるのだし。
その開き直りが、人生を楽にしてくれる。
楽観。楽観。
どうなっていくかなんて、決まってるから気にすんな。
ただ生きろ。ただ生きていい。
「気にすんな」というアドバイスは無力だ。
だってそう言われても、気になってしまうのだから。
そこに一言を加えたい。
「気にすんな」→「どうせ既に決まってるんだから」
穴に入りたくなるような苦しい経験だって、あなたが悪いわけじゃない。
神様が書いたシナリオに偶然あっただけの話。
うん。気にすんな。
このまま今の仕事を続けていくのだろうか?
子供を産み育てた方が良いのだろうか?
悩みは尽きない。
でも気にすんな。決まってるから。
他人事の人生だ。
虚構を眺めながら、楽しんでいく。
さて、こっからどうなっていく?
ワクワク。
何歳で死ぬとか、ここから誰と出会うだとか。
作品のシナリオは既に確定している。
物語を書き換えることはできない。
だからといって楽しむことを諦める必要はない。
決まっている人生のページを、1枚ずつめくっていく。
ページを捲るたび、様々なことが起こり、様々な感情を味わっていける。
人生が既に決まっているという事実は、あなたが好きに生きるための「免罪符」だ。
どうせ決められているからこそ、好きに生きればいい。
レールを外れて見ようとしたところで、そっちに元からレールは敷かれている。
もうどうしようもないほどの絶望に襲われる時もある。
ここから先も物語が続いていくのなら、何かしらの形でどうにかなるはず。だから怖がらなくていい。
そしてここで物語が終わりならば、別にそれはそれでいい。ああ面白かったと、人生という本を閉じてしまえばいい。
この人生の責任は、全て著作者である神様に存在する。
決まられた人生を生きるだけの私たちに、責任を感じる義務なんてない。
好きに生きよう。
どうせなるようにしかならないのだから。
ページは捲られた。
さて、今日はどんな物語が紡がれていて、私はどんな感情を味わうことになるのだろうか。