見出し画像

川底は見えないけど、川底に存在する苦しみを想像できる人間ではありたい。 〜「川のほとりに立つ者は」を読んで〜

「川のほとりに立つ者は、水底に沈む石の数を知り得ない」

他人の川底に、何が転がっているかなんてわからない。

その人のために行動をしてみても、それが本当にその人のためになっているかなんて、わからない。

川底に沈む石たちに、苦しめられながら今日をどうにかやり過ごして生きている人たちがたくさんいる。

誰かのためを思って行動することは、素晴らしいことだ。
でも、その人が思い通りに動いてくれないと怒りを感じることは、「傲慢」以外の何ものでもない。

「利他」について考える。
情けは人のためならず、だ。
誰かのために行動することは気持ちいい。
大切なのは自分の感情だ。
その人のために行動をしたという事実が実際には既にゴール地点で、そこから結果として他者がどう行動していくかなんて、私のコントロールの及ぶ範囲ではない。

「嫌われる勇気」という本を思い出した。
他者の課題。課題の分離。

結局、その人の川底は、その人が責任を持って綺麗にしていくしかない。
私がその人の川底を綺麗にすることはできないし、するべきでもない。
できるのは、せいぜい誰かが川底を綺麗にすることを後押ししたり、美味しい物でも差し入れしてあげて、川底を綺麗にするエネルギーにしてもらうくらいだ。
実際に行動するのは、その人でしかない。

他人の川底が汚れているからといって、自分が責任を感じる必要もない。
妻の機嫌が悪いからといって、私が悪いわけじゃない。
それぞれの川底は、それぞれが責任を持って管理していく。
汚い川底で生きていたって、その人がよければ別に構わない。

自分の川底はどうだろうか?
自分の内面を見つめることは大切だが、案外その行為を先送りにしていて、川底に何が存在しているのか自分でも理解していなかったりする。

なんとなく不快感が付き纏うなら、しっかりと川底を見つめてみる必要がある。
向き合うことで自分を苦しめている石の姿がはっきりとわかり、楽に生きるヒントが得られるかもしれない。
正体がわかっているお化けであれば、そこに存在していても何も怖くない。

そして、自分の川底が汚れていることを、誰かのせいにしてはいけない。
気持ちよく生きるために川底を綺麗に保つのは、自分の責任だ。

きっと綺麗な川の方が、気持ちよく人生を歩める。
他人の川に口を出している暇なんて実はない。
しっかりと自分の人生、自分の川と向き合う時間を大切にしていたい。

普通。普通じゃない。
ちゃんとしてる。ちゃんとしてない。

結局人は、自分の物差しで測ってしまう。
でも、仕方がない事情。やむを得ない理由。
それぞれが抱えているかもしれない「何か」を、想像できる人間でありたいと強く思う。

あなたの川底に、どんな石が転がり、どんな苦しみをあなたは抱えているのだろうか。
それは僕にはわからない。見えない。
でも、川底をイメージして、あなたを応援することは諦めない。

他人の川底を見えている気になって、浅はかな優しさを押し付けるのはやめにしたい。
だけど他人のために生きることを放棄したいわけでもない。

みんなの川底が、綺麗であればいい。
綺麗でありますように。

まずはそれぞれが、自分の川底を一度しっかりと覗き込んで、掴み取れる石を取り除くことからはじめていけたらいいのかもしれない。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?