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鶴田吾郎「神兵パレンバンに降下す」・鑑賞編~戦争画よ!教室でよみがえれ④

戦時中に描かれた日本の「戦争画」はその出自のため未だに「のけ者」扱いされ、その価値を語ることを憚られている。ならば、歴史教育の場から私が語ろうではないか。じつは「戦争画」は〝戦争〟を学ぶための教材の宝庫なのである。これは教室から「戦争画」をよみがえらせる取り組みである。 

 目次
(1)戦争画とは何か?
(2)わたしが戦争画を語るわけ
(3)戦争画の鑑賞法
(4)戦争画を使った「戦争」の授業案
(5)「戦争画論争」から見えるもの
(6)戦争画による「戦争」の教材研究
(7)藤田嗣治とレオナール・フジタ
(4)では毎回、1枚の戦争画を取り上げてその絵を教材にした戦争の授業案を鑑賞編(前編)+授業編(後編)のワンセットで提案していきます。

(4)鶴田吾郎「神兵パレンバンに降下す」・鑑賞編ー戦争画を使った「戦争」の授業案

鶴田吾郎『神兵パレンバンに降下す』1942改

 この絵を見てまず目に入って来るのは青空―それも、抜けるような快晴の青空だ。

 この青空がこの絵の基調だ。青というのは「広がり」の色である(空も海も無限と思えるほど広い)。この絵の青にはこの時代の日本人の思いが表現されているように思う。

 あの太宰治は「十二月八日」という小説(昭和17年2月発表)の中で、ラジオから聞こえてきた開戦ニュースを聞いた主婦の心の変化をこう描いている。

「締め切った雨戸の隙間から、真っ暗な私の部屋に、光の差し込むように強くあざやかに聞こえた。二度、朗々と繰り返した。それを、じっと聞いているうちに、私の人間は変わってしまった。強い光線を受けて、からだが透明に宿したような気持ち。日本も、今朝から、ちがう日本になったのだ」(「十ニ月八日」『十二月八日 太宰治戦時著作集』毎日ワンズ)

 1941(昭和16)年12月8日。日本はアメリカ・イギリスを相手に開戦した。それは現代からみれば「無謀」だと言えるかもしれない。いや、当時においてもそれは同じだったろう。誰もが米・英という「巨人」に立ち向かう若者の心境だったのではないかと思う。

 しかし、当時の日本人はこのジャイアントキリングを成功させて新しい世界を東洋の小国・日本が作るんだ、という気概があったのである。まずは当時の人々のその心を理解しよう

 次に目に入るのはこの青空に点々と広がる白いパラシュート
 
 白は純粋かつ無垢を表す。この絵の陸軍落下傘部隊が「聖戦」を象徴しているのは間違いない。

 みなさんご承知だと思うが、当時のインドネシアはオランダの植民地だった。しかも17世紀のオランダ東インド会社の設立から約300年にわたってオランダに支配され続けていた。ゆえに、日本軍が戦ったのはヨーロッパのオランダ軍である。これを間違えてはいけない(なお、インドネシア人の中にはオランダ軍兵士となっている人もいる)。

 この落下傘部隊が着陸したパレンバンはインドネシア・スマトラ島南部の都市だ。日本軍はここにあるオランダ軍飛行場とインドネシア最大の石油基地の確保をめざしていた。パレンバンの石油基地はオランダ・シェル社のBPM精油所とアメリカ・スタンダード社のNSP精油所が隣り合って並んでいた。当時の日本はいわゆるABCD包囲網(米・英・中・蘭)により石油をはじめとするエネルギー資源を一切売ってもらえなくなっていた。これは日本の国民生活の「死」を意味する。

 だから、オランダ植民地のオランダ資本・アメリカ資本の石油を奪取に向かったのである。やむにやまれぬ選択だと言ってよい。その「やむにやまれぬ」心がこの絵の点々と広がる白に表れていると言っては言い過ぎだろうか。

 さて、この青空と白いパラシュートの間にはやや黄色味がかった雲が浮かんでいる。じっと見ているとこの雲が島に見えてくる。真ん中から左上などはまるでインドネシアの島々のようだ。私にはこの雲の配置に東南アジアそのものが表現されているように感じる。

 大東亜戦争―当時の日本は“あの戦争”をそう呼んでいた。

 広大な東アジア世界には当然、東南アジアも入る。植民地化されたアジアの解放は当該国のみならず日本人の宿願だった。こうした当時の日本人の想いを理解できないとこの絵も理解できないだろう。

 インドネシアにはジョヨボヨ王伝説というものがある。ジョヨボヨ王は12世紀前半に東ジャワ・クディリ王国の王様。この王様が宮廷詩人に作らせた「バラタユダ」に数々の予言が書かれているのだが、そこにこんな一説があるそうだ。

「北から白い衣を身につけた黄色い人々が攻めてきて、白い人々を追い出してくれる。黄色い人々は王国を支配するが、それは短い期間でトウモロコシの花の咲く前に去ってゆく」

 日本陸軍の落下傘部隊はまさに予言通りだったという不思議な話である。ちなみに、この落下傘部隊の一員である奥本實中尉はパレンバン制圧後に体験したこんなエピソードを書き残している。

「住民は、ガソリンスタンドからホースを引いてきて、私の車に「ガソリンを入れよ」と言う。そしてオランダ人や店舗を指さし、ポンポンと射撃の真似をする。「ガソリンをどしどしサービスするから、オランダ人をやっつけてくれ」というのである。ニ~三個所でそんな場面に出会ったものである」(髙山正之・奥本實・奥本康大『なぜ大東亜戦争は起きたのか?空の神兵と呼ばれた男たち インドネシア・パレンバン落下傘部隊の記録』ハート出版 p198)

 インドネシア人たちはオランダの圧制に苦しんでいた。このパレンバン作戦の前に行われた海軍落下傘部隊によるメナド空挺作戦では、日本兵が奪取したオランダ軍のトーチカを調べると、中には足を鎖でつながれた現地インドネシア兵がいたという。自分たちオランダ兵は危険とみれば逃げだし、現地インドネシア兵は逃げられないように鎖でしばっていたというわけだ。

 つまり、この絵には当時の日本人の心がすべて表現されているように思うのである。

 最後は絵の下段に描かれた緑一色の低木群と3人の日本軍兵士だ。体をかがめて短銃を向ける者、やや中腰で構える者、片膝をついて手榴弾を投げようとする者。3人とも左に向かって戦闘状態である。すぐ近くに敵がいることがわかる。

 この落下傘部隊が携行した武器は14式拳銃(画面右の兵士が持っている)と手榴弾のみ。当然、重い武器を持って降下はできない。他の銃火器は箱に入れて別に投下しているが、降下後にこの箱がなかなか見つけられなかったという。

 先に紹介した奥本實中尉の手記で戦闘のようすを見てみよう。

「傘の地上までの降下時間はわずか四~五十秒しかない。敵弾の炸裂した爆風で、大きな傘がフワフワ、と傾く。白い傘布にブスブス弾丸が貫いて穴が多数明いたが、幸運にも絹の傘布は裂けなかった」(同上p131)

 降下している間は下からの敵の攻撃にさらされることになる。ゴム林のあちこちから空をめがけて銃火が吹き荒れている状況である。さらに17~18門の高射砲の砲弾が炸裂している。電光石火のごとく兵士をどこにでも送り込めるのが空挺部隊の長所だが、下から狙い撃ちにされるのが大きな弱点だ。ドイツ空挺作戦はクレタ島攻略で50%、ソ連軍のドニエプル川補足殲滅作戦では60%、アメリカのマーケットガーデン作戦でも50%の兵士を失っている。パレンバン作戦のときの日本陸軍空挺部隊は12%だった。この作戦が人命を重視したすぐれたものだったということがわかる。

次回・授業編へ続く。

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