藤田嗣治の日本人アイデンティティ~戦争画よ!教室でよみがえれ㉞
戦時中に描かれた日本の「戦争画」はその出自のため未だに「のけ者」扱いされ、その価値を語ることを憚られている。ならば、歴史教育の場から私が語ろうではないか。じつは「戦争画」は〝戦争〟を学ぶための教材の宝庫なのである。これは教室から「戦争画」をよみがえらせる取り組みである。
目次
(1)戦争画とは何か?
(2)わたしが戦争画を語るわけ
(3)戦争画の鑑賞法
(4)戦争画を使った「戦争」の授業案
(5)「戦争画論争」から見えるもの
(6)戦争画で学ぶ「戦争」の教材研究
(7)藤田嗣治の〝戦争画〟を追って(「藤田嗣治とレオナール・フジタ」改題)
(7)藤田嗣治の日本人アイデンティティー藤田嗣治の〝戦争画〟を追って④
柴崎信三は戦後生まれのジャーナリストだが、日本経済新聞社を退社後に著作活動に転じている。ゆえに、美術史家とはやや違う観点から藤田の人と作品を評価している。
柴崎は著書『絵筆のナショナリズム フジタと大観の<戦争>』(幻戯書房)の中で<「黄禍」の影>というパートタイトルを設けて、日本人・藤田が受けた西洋のまなざしとそれが藤田に及ぼした影響を指摘している。
ここで言う「西洋のまなざし」とは主には人種偏見のことである。
第一次世界大戦のさなかに開かれた個展で藤田は天国と地獄を味わう。
天国とは、あのピカソが藤田の作品の前で3時間もたたずんで鑑賞したというエピソードだ。それに対して地獄とは、新聞に載った批評である。藤田の回想によればその地獄とは次のようなものだった。
「「日本人は狡猾なり、猿の如く物真似上手な国民といい、散々に悪口をたたいた」(日本画私観)と藤田は回想する」(柴崎信三『絵筆のナショナリズム フジタと大観の<戦争>』 幻戯書房 p65)
人種偏見に満ちた論評だが、柴崎によればこの「悪評」がいわば藤田を日本人であることに目覚めさせて日本の伝統美術をヒントにしたあの「素晴らしい乳白色」を生み、藤田をフジタへと飛躍させたのだと言う。
こうした「西洋のまなざし」は、日本人であるというアイデンティティを目覚めさせることになる。
日本に帰国していた藤田は1939年に再びパリへ赴く。この時に4月5日付『東京日日新聞』に「苦難を求める 再び海外に出る私の心境」として次のように書いている。
「安閑として単に私の画業を続けるよりも、最も私に相応しい役目は外国に散在している数千人の私の友人を通じて、広く真の日本精神を説き、日本の姿を知らせること」
「芸術を媒介として、国際親善の一役を自ら進んで買って出よう」(同書 p100)
世界にその名を馳せた藤田なら美術を通しての国際親善を担う気持ちがあるのは当然だろう。だが、ここで重要なのは「広く真の日本精神を説き、日本の姿を知らせる」と明確に述べている点だ。藤田は自分の対する偏見の目線を芸術生活でも日常生活でも感じていたのだろう。この偏見を自分が変えたい、日本精神と日本の姿を伝えたい、それこそが真の国際親善の姿だと考えていたと思われる。じつは柴崎はこの前提として次の藤田の文章を引用している。
「満華人に日本精神を教え込むことは、他日に到って愛国心の逆用を危惧する。勿論、満華人と我々は国家観念において根本的に相違しているが、そうかといって油断は大敵である。民族性というものの差を知らないで、満華人を日本人的にしようとするのは大きな間違いであろう」(同書 p100)
パリでの異邦人体験のある藤田だからこそできる指摘だろう。
唐突ではあるが、ここで藤田嗣治の年齢と日本史・世界史の重要事項を突き合わせてみたい。
1904(明治37)年。
日露戦争が勃発。藤田が18歳のときである。そして翌1905年に東京美術学校へ入学。画家としての勉強が本格的に始まった年である。翌年、日本海海戦で東郷平八郎が率いる連合艦隊がロシア・バルチック艦隊を撃破した。19歳という血気盛んな青春期にあった藤田も日本人の一人として万歳を三唱し、上へ下への大騒ぎをしたことだろう。
ちなみにこの日露戦争での勝利体験は戦前期の日本人の戦争観を作る大きな出来事であった。あの西洋の大国ロシアに勝ったという経験は当時の日本人に大きな勇気と希望を与えたからである。
1912(明治45)年
明治天皇が崩御された。日露戦争で活躍した乃木希典陸軍大将が夫妻で殉死されるという事件も起きた。2年前に東京美術学校西洋画本科を卒業していた藤田はこの年、鴇田登美子と大恋愛の末、結婚している。明治という時代の終わりとともに藤田も書生から画家へと成長を遂げる分岐点に立っていた。
1913(大正2)年
アメリカのカリフォルニア州で排日移民法が成立する。この年、27歳でついに念願のパリ留学が現実のものとなる。6月18日に門司を出航し、45日間の船旅を経てマルセイユに到着。夏にはパリへ入ることができた。だが、この年に定着し始めていた日系人に対してカリフォルニアで土地利用制限がかけられた。これが11年後のアメリカ全土を対象とした排日移民法へとつながる。
藤田はこのニュースをパリで聞いただろうか。藤田が耳にしていたかどうかは別として西洋世界が日露戦争での日本の勝利、日本人のアメリカへの移民・定住等の動きから東洋の小国を警戒対象とし始めていたのは間違いないだろう。
1914(大正3)年
第一次世界大戦が始まる。留学した翌年である。藤田は退去命令を無視してパリに留まり、画業を続けながら貧困生活を送る。さらに志願看護師にもなる。この戦争体験は後々の藤田の生き方に大きな影響があったと推察される。
1917(大正6)年
ロシア革命。藤田が初の個展を開いた年である。冒頭で紹介したピカソのエピソードがあった年だ。この展覧会は大成功している。
1923(大正12)年
関東大震災。もちろん藤田はパリにいる。だが、この未曾有の大災害の報はパリにも届いたに違いない。この震災が藤谷どのような影響を与えたかは資料がない。この年にあの『五人の裸婦』を出品している。ということは激賞された「素晴らしい白地」「フジタの乳白色」という評価はすでに定着していた。
1925(大正14)年
普通選挙法公布・東京でラジオ放送開始。この年、藤田は39歳。フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を、ベルギー政府からレオポルド一世勲章を授かった。留学して12年、藤田の絶頂期かもしれない。
1931(昭和4)年
満州事変。じつは藤田はこの2年前に帰国している。そして半年後には再びパリへと旅立っているので、満州事変の報はパリで聞いたはずである。さらにこの年の10月には4人目の妻となるマドレーヌを連れて南米からアメリカへ渡りそして1933年に2度目の帰国を遂げている。
1937(昭和12)年
日中戦争始まる。ピカソが『ゲルニカ』制作。藤田は前年の6月にマドレーヌを急病で亡くしている。12月に5人目の妻・堀内君代と結婚。この年は大壁画『秋田年中行事太平山三吉神社祭礼之図』を制作。藤田はおそらくピカソの近況と『ゲルニカ』の評判を聞いていただろう。
翌年に海軍省嘱託として中国へ派遣。戦争画の制作を始める。
こうして日本及び世界の動きと藤田の画家人生を重ねてみると、藤田が日本人としてのアイデンティティに目覚める要素が大きく2つあることがわかる。
一つは西洋人の中の日本人体験である。
藤田が1回目に帰国したとき、母校・東京美術学校で「巴里に於ける画家の生活」と題する講演会で話した内容などはその典型例だろう。
「私たち日本人はどうしても自分の個性を現すときには国民性というものを忘れてはならないと思います。どうも日本人がいきなり西洋人になろうとしてもそれはできませぬ。西洋を尊敬することは尊敬しても宜いが、我々は日本人である以上矢張り日本を尊敬せねばならぬと思うのであります。私も向こうへ行って初めて日本人でありながら日本のことを知らなさすぎた事に気付き、日本研究を始めました」(近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』講談社 2002年p144~145)
もう一つは繰り返される戦争体験である。
青春期の日露戦争を皮切りに、その10年後には欧州での第一次世界大戦、さらに約20年後には再び欧州での第二次世界大戦、そして日中戦争及び太平洋戦争を含む大東亜戦争と続く。自身が「私程、戦に縁のある男はない」と言うのもよくわかる。
だが、この2つを次のように結びつけるのは間違っている。
「私には、藤田が「日本人」としてのアイデンティティを獲得しようと背伸びをする痛々しいほどの思いが感じられてならないのである。ただでさえ色眼鏡で見られつづけた藤田が、戦時下の祖国から「真の日本臣民」と認められるためには、恥ずかしいほどあけすけに彩管報国の思いを表明しなければならなかった」(近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』講談社 2002年p214)
藤田は「背伸び」などしていないし「痛々しい」思いもしていない。パリで自分が「日本人」であることを発見したことが彼の画家人生を豊かなものにしたし、自分の人生の目標をも提供してくれたのである。充実し喜んでいたに違いない。
他人から「真の日本臣民」と認められたいから戦争画を描いたのでもない。反対に、藤田は自分こそが絵描きとして同胞たる「日本臣民」を支えたいという一念で描いていたのである。そうでなければ、展覧会に訪れる人たちが手を合わせたり、お賽銭を投げ込む絵など描けるはずがないではないか。
むしろ、日本人であろうとする藤田に「痛々しいほどの思いが感じられ」るのは、戦後に祖国を追われてフランスで過ごしていたときのエピソードである。
「春のある日、藤田は君代夫人にいたずらっぽい笑みを浮かべて「明日は何の日か知ってるかい?」と尋ねた。夫人が答えられないでいると、藤田はパリで買ってきたという小さな箱を取り出した。中に入っていたのは雛人形だった。翌日は三月三日。雛祭りだったことを夫人は久しぶりに思い出した。藤田はさっそく大工道具を取り出し、雛壇を作りはじめた」(近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』講談社 2002年 p291)
藤田宅(上記画像)を見ると、日本の文化・日常をそのまま持ち込んだものが目についたという。西洋的な暮らしをしているどころか「じつは死ぬまで日本人」「ふつうの感覚の日本人」だったのである。( 布施英利『NHK出版新書559 藤田嗣治がわかれば絵画がわかる』NHK出版 2018年 )
ある人が藤田宅を訪れ時、残された遺品の箱には古びた日本人形があった。
「その人形の胸に、なぜだかフランス政府から授与されたレジオン・ドヌール勲章がしっかり縫い付けられていたという。晩年のフジタは、この家で何を思っていたのか。なぜ「日本」人形に、自分がもらったフランスの勲章を縫い付けたのか」( 布施英利 同書 pp228~229)
あれほど酷い目に会いながら、藤田は祖国のすべてを捨てることはできなかった。最後まで日本を愛していたのだ。