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「みんなが幸せ」を追求する社会科の「みんな」とは?・小さな教育情報

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上記は筑波大附属小学校の由井薗建氏の板書です。ひと目見て力のある教師であることがわかります(『教育研究』2021年10月号)。

この授業の課題は「米は人々にとって救世主となったか?」(ちなみに解説の方では「になったか?」と書かれていますが)

本人の解説によればこれは「社会科の本質に迫るような問い」だそうです。では授業者は社会科の本質をどう考えているのでしょうか。

由井薗氏は社会科とは次のような教科なのだと言います。

「みんなが幸せになるためにどうすればよいのか、自分ならではの考えを問い続けていく」ような教科。言い換えると「主権者」を育てる教科。

私が気になるのは「みんなが幸せになる」という文言です。

たいへん美しい言葉です。ですから、これに異を唱えるのはなかなか勇気がいります。しかし、私はあえて異を唱えます。

考えてみて下さい。「みんなが幸せになる」ーこんなことあり得るのでしょうか?

「相手は小学生なのだから理想を追求するのはいいじゃないか」という反論が聞こえてきます。

それは小学生を下に見る発言です。世の中について思考・判断するにおいてその根本は大人となんら変わりません。

私が危惧するのは、これでは〈偽善〉を考え、問い続けていくことにならないかということです。

コロナ禍の現代日本を見て下さい。コロナ感染での死者を防ぐために緊急事態宣言が出されますが、これによって飲食店他が潰れて自殺者が増えています。何という矛盾!

この場合「みんなが幸せになる」とはどういうことなのでしょうか?この事例一つをとってみてもそれが偽善であることがわかります。

この世の中はとても複雑で、すべての人が幸せになることなどあり得ないのです。まずはこの辛い現実を教師が認めるところから始めなければなりません。

子どもたちに「自分ならではの考え」を持たせるのは賛成です。

しかしその前に「この世の中は複雑で難しく正解などない」ことや「だから大人は対立するし場合によっては憎しみも起こる」ことを理解させることが大切です。私はこれが社会科の大事な目的だと思っています。

じつは由井薗氏も私と同じ考えなのかもしれない、と一瞬思いました。氏はこうも書いているからです。「事実をじっくり見つめ、価値観の異なる他者との対話を通して」考えさせるのだ、と。

しかし、私とは似ているようで違うことが次の子どもの発言の評価でわかります。

氏によれば、ある子がこう言ったそうです。「歴史に争いはつきもの。勝った方が正義になる」

私はこれを歴史の真実を言い当てた鋭い気づきだと思います。このテーゼだけで日本と世界の歴史を正しく分析できるでしょう。

しかし由井薗氏は続けてこう言います。

「子どもたちの中で「死」や「争い」が軽いものになり、弱者への想像力が働かないと痛感している」

先の子どもの発言とこの由井薗氏の発言がどうつながっているのかやや不明確ですが、子どもの発言を否定的に捉えているのは間違いありません。

どの子どもの意見にも含まれている大事な価値を認めようとしているわけではないように見えてしまいます。

そもそも、この子どもの発言のどこに死や争いを軽く見ているとか弱者への想像力がないとか言えるものがあるのか?私には理解できません。

話を戻します。

氏の言う「みんな」とは誰のことでしょう?これは社会科の本質に関わる重要な問いです。

少なくとも歴史を教える時は「みんな」は日本と日本人でなければそれは日本の歴史の学習になりません。

由井薗氏は自分が主張する社会科の本質の言い換えについて「主権者」とは別に柳田国男の言う「一人前の選挙民」という言葉も使っています。ということは「みんな」は日本と日本人ということですね。

ならば思い切って、こう言い換えましょう。

「日本と日本人が幸せになるためにどうすればよいのか、自分ならではの考えを問い続けていく」

「みんな」という言葉には「公」がありません。「私」の集積です。「日本」「日本人」には「公」の観点が出てきます。

「みんなが幸せになるコロナ対策を考える」は単なる呼びかけやスローガンならいいでしょう。しかし、真剣な議論を必要とするならば最低でも公の観点から「日本と日本人が幸せになるコロナ対策を考える」でなければ本気とは言えません。

「みんなが幸せになるために」では根無し草社会科、無国籍社会科となる危険があります。

子どもたちに本気の議論をさせるつもりならば、日本の主権者を育てるつもりならば「日本と日本人が幸せになるために」を考えさせましょう。




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