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ニューギニアの戦場に劇団をつくり兵士に勇気を与え続けた加東大介~日本が世界に誇るJミリタリー・教科書が教えない〝戦場〟の道徳(6)

第6回は出征したニューギニアの戦場で劇団をつくり、兵士に勇気を与え続けた『南の島に雪が降る』で有名な俳優・加東大介です。

◇名優・加東大介と「南の島に雪が降る」
◇エピソード ニューギニアの戦場に劇団をつくり兵士に勇気を与え続けた加東大介
◇戦後の演芸分隊
◇参考文献等

◇名優・加東大介と「南の島に雪が降る」

 このエピソードの主人公である加東大介(本名・加藤徳之助)は有名な俳優です。黒澤明監督の「生きる」「七人の侍」「用心棒」、小津安二郎監督の「早春」「秋刀魚の味」などの名作にも出演しています。1952年の毎日映画コンクールでブルーリボン賞を受賞するなど名優とて有名です。

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 加東大介は兄は沢村国太郎、姉は沢村貞子という芸能一家に生まれ、歌舞伎の世界から前進座の舞台俳優になった人です。その当時は市川筵司と名乗っていました。1933年に上等兵として一度除隊しましたが、それから10年後に陸軍衛生伍長として召集され、ニューギニアの戦地で生まれた劇団の座長を務めました。

 戦後、この時の体験をまとめた手記を執筆。これがベストセラーとなり、後に『南の島に雪が降る』のタイトルでテレビドラマ化・映画化されました。

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※なお、このエピソード内では戦後の芸名・加東大介で統一しています

◇エピソード ニューギニアの戦場に劇団をつくり兵士に勇気を与え続けた加東大介

 昭和16(1941)年、日本とアメリカとの間で戦争が始まりました。当初は日本が優勢でしたが、経済力や工業力でまさるアメリカに徐々に押されはじめ、苦しい戦いを余儀なくされていました。そんな中、舞台俳優をしている加東大介さんのもとへ赤紙と呼ばれる召集令状が送られてきたのは昭和18(1943)年10月8日のことでした。いよいよ戦場へ向かうときがきたのです。

 加東さんがおもむいたニューギニア島のマクノワリは南洋の島です。マラリア・デング熱・アメーバ赤痢などの熱病や食糧不足による栄養失調で倒れる兵士もたくさんいます。一人また一人と仲間が亡くなっていく中で希望が見いだせずにやる気がなくなったり、仲間割れが起きるなどチームワークが乱れていきました。

 加東さんが在籍した部隊には演技や芸能にかかわる兵隊が3人いました。俳優である加東軍曹の他に三味線弾きの叶谷二等兵、 スペイン舞踊の前川二等兵です。さらに上官である将校に演劇評論家の杉山中尉がいました。杉山中尉はこのメンバーを生かして加東さんを中心に演芸分隊作ろうと考えました。みんなのいらだった気持ちをやわらげてチームワークを取り戻すにはこれしかないと考えたのです。
 
 演芸分隊の編成にあたり3名以外に演芸に協力できる人材を募集することになりました。するとさまざまな兵士たちが集まったのです。歌のうまい今川一等兵、浪曲の得意な日沼一等兵、カツラ屋の塩島上等兵、洋服屋の斎藤上等兵は衣装担当、デザインが専門の小原上等兵は舞台装置担当となりました。この後も各部隊はこの演芸分隊に協力したいと次々と協力を申し出てきました。戦場にもかかわらず歌や踊りやお芝居を見ることができるのですから、兵士たちの期待は大きかったのです。

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 加東軍曹をリーダーにして演芸分隊は午前中は食料になる畑仕事、午後は舞台づくりの力仕事、そして夜に劇などの稽古をするという忙しい毎日をすごしました。公演は1日1回。アメリカ軍の空襲が終わった後の2時から5時まで1回につき約300人の兵士が部隊ごとに観客となります。出し物は歌、落語、手品、漫才、踊り、お芝居などです。兵士たちは舞台にこしらえた障子や柿の木、針金と紙で作った鉄ビンなど故郷・日本の風景に「久しぶりに日本を見ることができた」「故郷を思い出した」と感激しました。

 兵士にとって演劇部隊の公演は「生きるためのカレンダー」になっていました。体が弱って息を引き取ろうとしている兵士に「今度の公演はすごくおもしろいらしい。お前、見ないで死ぬつもりか!」と怒鳴ると「そうか見なくちゃ・・・」と気を取り直す者、病気で動けなくなっている兵士に「もうすぐウチの部隊の観覧日だぞ」と言えばそれを聞いて起き上がることのできた者もいました。

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 ですから、演芸分隊は1日も休まずに公演を行いました。1日休んでしまうと楽しみにしていた公演を見ることのできない部隊が出てきてしまいます。演芸分隊の俳優たちは自分がマラリアにかかり高熱を出しても、猛毒のサソリにかまれても休みませんでした。

 観客となる各部隊の中で最も遠い山奥から来る部隊がありました。この部隊は気候の悪いワルバミ河の向こう岸を守っています。みんなで河を泳いで渡り、何日か野宿しながらやって来て、見せてくれたお礼にと演芸分隊の畑仕事をして帰るのです。加東さんは「この次も待っていますからね」と声をかけると「なんとか、それまで生きてみようと思います。さようなら」と手を振りながら去っていきます。加東さんは命がけで見に来てくれる人たちを見送りながら「こんな人に喜ばれる俳優という仕事を一生続けよう」と心に誓うのでした。

 ある日、演芸分隊にこんな話が持ち上がりました。「お芝居の中で雪を降らせることはできないだろうか」「なにしろ、ここは南の島だ。一年じゅう暑い。兵隊たちは日本の秋や冬を見たいにちがいない。なんとか雪を見せたいものだ」

 雪と雪の風景を舞台に作るための資材探しが始まりました。不用になったパラシュートのひもをはずして舞台に何枚も重ねて地面に積もる雪にしました。屋根に積もる雪は病院の脱脂綿です。降る雪は紙を三角に切って上から降らせます。

 いよいよ本番です。舞台の幕が上がるとそこは一面の銀世界になっていました。それを見た兵隊たちから「雪だあ!」と大歓声が上がりました。興奮する観客を見た加東さんたちは「もう少しこのままにしておきましょう」と自分たちの出番を遅らせることにしました。

 大好評の雪のお芝居が始まって数日たったとき、幕が開くと歓声が上がるはずなのになぜかシーンと静まり返っています。いったいどうしたのでしょう。客席を見ると300人近い兵隊が一人の例外もなく両手で顔をおおって肩をふるわせながら泣いているのです。
「きょう、来ているのはどこの部隊だろう?」この部隊は東北の国武部隊でした。みんな雪深い国で生まれ、雪の中で育った人たちばかりの部隊だったのです。生きているうちにもう一度雪を見ることができてうれし涙がこぼれたのです。

 さらに翌朝、国武部隊の歩けなくなった病人2人が「雪が見たい」と運ばれてきました。担架に寝たまま手を横に伸ばし、紙の雪をいじっています。つまんでは放し、放してはつまみをくりかえすのです。その顔は黄色くなりもう表情は失われています。2人を見る加東さんの目には光るものがありました。

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 昭和20年8月15日。日本の敗戦で戦争は終わりました。生死を越える体験をして生き残った加東さんはこう話していたそうです。

「ぼくは幸せだ。あれほどみんなに喜んでもらえるお芝居ができたんだから。命があるんだもの。これからはもっともっと大勢の人に喜んでもらえる俳優にならなくては」

*「特別の教科 道徳」の内容項目「C 主として集団や社会との関わりに関すること」の「勤労、公共の精神」「伝統や文化の尊重、国や郷土を愛する態度」、「D 主として生命や自然、崇高なものとの関わりに関すること」の「感動、畏敬の念」「よりよく生きる喜び」に関連します。

◇戦後の演芸分隊

 加東さんたちが過ごしていたニューギニア西部に終戦の知らせが来たのは8月15日から数日後です。もう芝居どころではないと思いましたが、「いつ日本に帰れるかもわからない状態の中、兵隊の気持ちが後ろ向きになるのはこれからだ。演芸で気持ちをつなぎとめるしかない」という意見に後押しされて演芸は続けられました。敵だった連合軍のオランダ人将校やパプアニューギニアの兵士も見にきていました。加東さんが日本に戻ることができたのは翌年の5月でした。

 なお、この時に一緒に演芸分隊に所属していた九州出身の僧侶が漫画家・小林よしのりさんの母方の祖父だったそうです。

◇参考文献等

*加東大介『南の島に雪が降る』(ちくま文庫 2015年)

*ウィキペディア・加東大介

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