『パイドン(プラトン)』最後の言葉についての考察
はい。なんとなく気分が乗って他の人の記事を見て回ってると、たまたま『パイドン』について語っている方がいらっしゃったので、ちょうどいいんでね、考えていきたいと思うんですよ。(といっても今回は、もうすでに何度も考えたことをただなぞるという形なのだけれど)
はい。ではソクラテスの皮を被ったプラトンさんが残した問題の言葉。
「クリトン。私はアスクレピオス(医療の神)に雄鶏一羽の借りがある」
アスクレピオスって誰やねんって、あまり詳しくない人は疑問を持つと思う。適当にネットで調べてもらっても構わないんだけど、まぁ軽く説明すると、どんな病気も治してしまえる医療に関しては最強の神、みたいな感じ?
ちなみに、今大活躍中のWHO(世界保健機構)の中二病っぽいあの蛇と杖のマークあるじゃんかぁ。あれ、アスクレピオスの杖。ひゅー! かっこいいね!
はい。で、話を元に戻します。
雄鶏一羽っていうのは、まぁ捧げものだね。でっかいお賽銭みたいなものだと考えていい。当時のギリシャでは、雄鶏一羽ってまぁまぁな財産だから、何の借りかは分からないけど、ソクラテスさんは「私、医療の神様にはまぁまぁな借りがあるねん」って最後に呟いて死んだわけ。(実際にどうだったかは分からないけれど、とりあえずプラトンの中ではそうだったみたい)
で、西洋の歴史上、これがどういう意味なのかは割と謎で、色んな人が色んな解釈してる。
解釈1
「生きるのって苦しいから、実は生きること自体が病気やねんな。でも、アスクレピオスがそれを治してくれたから、俺はちゃんと生きることから解放される。やったぜ!」
解釈2
「無知ってのは病気やろ? で、病気って、自覚することで治すことができるようになるわけやん? 俺、自分の無知に気づけたわけやけど(無知の知)、それって実はアスクレピオスのおかげやねん。だから、借りあるねん)
大体このふたつが主流っぽい。どちらも、若干反論の余地がある。
まず2には致命的な問題がある。「このタイミングで、このような分かりづらい言い方をするだろうか?」ということ。
しかも、賢いソクラテスが、2の意味で言ったつもりなのに1の解釈がされかねないような言い方をしてしまうとは考えづらい。毒のせいで判断力が鈍っていたと考えることもできなくてはないが……
1の問題点は、そもそもソクラテスは「死は恐れるべきではない」と語っているが「生は苦痛の連続である」というような悲観主義的なことはあまり言っていない。むしろ生きることは楽しく、素晴らしいことであると主張することが多い人であったので、そういう部分と矛盾する。(しかし、死の直前でずっと隠していた本音がつい漏れてしまった、と考えるのは極めて自然である気がする。実際、ソクラテスの人生は中々に厳しいものであったから)
総合的に考えると、解釈1の方が自然であるように思える。しかしこれはあくまで……スーパー悲観主義者であったプラトンの解釈に過ぎないと捉えたほうが、自然かもしれない。つまり、プラトン自身が、そのように見えるように描いてしまった、と考えたほうが分かりやすいのだ。ソクラテスは実際にその言葉を言ったかもしれないが、ただ、プラトンが描いたようなタイミング、会話の流れで言ったとは限らない。
少なくとも賢かったプラトンは、この言葉が1の解釈で捉えられることが自然であることを、間違いなく自覚していたと思われる。
私はこう考える。プラトンは、明らかに、ソクラテスが生に苦悩していたと判断していた。そう見えるような、描き方を「せざるをえなかった」
プラトンは、あらゆる著作の中で、人の愚かさにはうんざりだという本音を漏らしているから(晩年の大作である『法律』ではそれが顕著である)そう考えるならば、おさまりはいい。
まぁこれくらいにしておこうかな。私、パイドンよりも弁明の方が好きなんだよね。あと一番いいのは饗宴。めっちゃ面白い。国家も悪くないけど、長いし、つまらん箇所も多いから、やっぱり長さといい内容といい、饗宴と弁明が好きだなぁ、私は。
あ、あと、この言葉は後の厭世主義者たちにすっごい強い影響及ぼしてて、ストア派とか、キリスト教徒とか、そういうのと密接につながってるんだよね。プラトン(&ソクラテス)は中世ヨーロッパの思想や空気感が全体的に暗くてじめじめしていた一要因。面白いね。