アニメ「平家物語」にまつわる考察【1】
※ネタバレ·妄想あり
昨年FOD先行配信で見終わっていましたが、地上波での最終回が放映されたので感想または妄想全開の考察をじっくりしていきたいと思います。
高畑監督から山田監督へ
高畑勲監督が映画「かぐや姫の物語」後、インタビューで「平家物語」をアニメ化したい、と言ってたことは有名だ。
私も楽しみにしていた。けれども2018年にあちらの世界に行かれてしまった。ああ、もう高畑監督の作品は見られないのかと、とても哀しく思ったことを思い出す。
なので「平家物語」がアニメ化されると知った時はワクワクが止まらなかった。
今回の「アニメ平家物語」の底本、「古川日出夫訳·平家物語」には高畑監督の推薦文がある。
この思いを山田尚子監督は「アニメ平家物語」でしっかりと受け継ぎ、高畑監督への鎮魂も感じることができた。叙事詩ではなく叙情詩、と山田監督も言われたように、まさに人が生まれ、生き、そして死ぬ。「歴史」の前に「人生」があった。泣き、笑い、恋をして。やがてかぐや姫なら月に、平家は龍宮城へと行ってしまう。
どちらも誰もが結末はわかっているけれど、こんなにも泣けるのはなぜなのだろう。それは、私たちも最終回は来るからだろう。詳しいストーリーはわからないけど最終回は必ず来る。そしてもし、魂が永遠だとしても、輪廻するとしても、「この肉体を持った」私、貴方は一回きり、このぬくもりは刹那なのだ。だから切ない。
「びわ」に何が仮託されたのか
①語り継ぐ集合体
アニメ平家物語には、「びわ」という未来が見えるオッドアイの少女が登場する。最初はなんとなく違和感があった。それが回を重ねるごとに馴染んでくる。
オリジナルキャラだがそもそも平家物語は琵琶法師が伝えたものだ。平家物語を語り継いだ琵琶法師達の集合魂、さらに、このアニメのスタッフキャスト、視聴した私たち、感想をさざめくように呟くツイッター、ブログ。びわはその全てを包み込む集合体である。
悲劇の前にどうしようもなく非力で、打ちのめされて、それでも生きた証を、彼らがこの地上に生きたことを全肯定し祈る。忘れないよと語り継ぐ。
以前自分のnote「かぐや姫の物語にまつわる考察」の中でこう書いた。
このアニメ平家物語で号泣した人もまた、その遺伝子をオンにされたのだ。前世なんか思い出さなくても、私たちの遺伝子には「平家物語」が刻まれている。びわの眼は私たちの眼となり、見えないスイッチを押したのだ。
びわは②八百比丘尼
びわは(壇之浦までは)年を取らない。不老不死と考えると八百比丘尼を思い浮かべた。他にもそのように考察している方もいた。
八百比丘尼の伝説は、びわが母を探しに行った越後や丹後にもある。
八百比丘尼は白椿を植えて歩く。沙羅双樹の花の色、の沙羅双樹は日本では夏椿、白椿らしい。
ラスト、白椿は時が巻き戻されて地から木に戻る。蕾になってまた種に戻るのだろう。枯れて土になってもまた種を宿す。ひとつの世代が消えたとしても、繋がればそれは永遠だ。血脈だけの狭い範囲ではない。魂、思いが祈りが繋げる永遠だ。そしてまさにこのことを、オープニングで羊文学が美しい詞にしている。この詞にも地球を全肯定したいと言っていた高畑監督との共鳴を感じる。
この身は朽ちても、地の糧となる。そうして次の命を繋いでいく。生きとし生けるものは皆そうだ。八百比丘尼は哀しい。不老不死であるがゆえに、見送らねばならない。もはや地上では会えない人々のことを、祈ることしかできない。びわもまた。。。
八百比丘尼は不老不死だけれど、伊勢神宮のような遷宮も違う形の不老不死なのだ。言い伝え、技術を語り継ぐ。有限の命だからこそ自分のいない未来へと懸命に語り継ぐ。肉体の不老不死ではなく、継いで繋いで遥か先の未來に手渡そうとする祈りの具現化が八百比丘尼そして、びわではないのか。
また、時間は未来から過去にも流れ得ると思う。未来から過去へ祈り、鎮魂することは遺伝子に刻まれた傷を癒すことになるのではと感じている。
びわは③市杵島媛
平家の氏神といえば安芸の宮島、厳島神社。祭神は宗像三女神。
その中でも市杵島媛は琵琶湖の竹生島にもいらして、弁天さまと習合している。弁天さまは琵琶を奏でている。
ゆえに、びわは平家一門の氏神さま、市杵島媛の化身とも言える。氏神だから立場が上と考えれば平家の面々にタメ口もわかる。平家に寄り添い、見守り、魂鎮めをする。女神であらばこそ。成長した白髪のびわ?はまさに弁天様のように見えた。作り手がそう意識せずとも、結果的にこの作品を見守ったのは市杵島媛=弁天様に違いない。技芸の神様だし。
ちなみに、徳子も妙音菩薩と見なされたこともあったそうだ。妙音菩薩は弁天でもあるという。
この世は美しいのか
天災、戦争、痛みや苦しみ、愛別離苦があるとしてもこの世は美しいのか。それは「かぐや姫の物語」の高畑勲監督も一番伝えたかったことだ。
自分の行き先が浄土かどうかなんてどうでもいいんですよぶっちゃけ。往生しなくて上等。安徳帝がもし地獄にあるとしたら徳子はそちらに行きたいでしょう。だからこそ徳子は「泥の中でも咲く花(蓮)になりたい」と言うのだ。
「女人に五つの障りあり無垢の浄土は疎けれど、蓮華し濁りに開くれば、龍女も仏になりにけり」(徳子が詠った今様、梁塵秘抄)
女人五障、何それって。女性のままでは穢れていて往生できないんだって。幼い龍女から男子になって(変性男子)なら往生できるって。いや、女人のままでも往生できるということは言っていたはずだという説もあるが、当時に限ればそうは思えない。
女人のままで往生できないのなら、泥を潜り抜けて咲く花、蓮のように泥まみれでも地上で生きて、痛みも汚穢も闇も涙も イザナミ様のように全てを引き受けて生きる。
この世からこんな苦しみがなくなり、この世こそがいつか浄土になれば良いと祈り続ける。それはすなわち地蔵菩薩、あえてこの世に留まりて六道衆生の苦しみを掬い続ける。救うではなく掬う。地蔵菩薩は神仏習合でイザナミ様だから。。。
※寂光院の地蔵菩薩は2000年5月に火災により焼損し修復、境内奥の収蔵庫に安置されることとなり、現在は美術院によって模刻された地蔵菩薩像が本堂に安置されているとのこと。会いに行きたい。。
もの作りの美しさ
↑の本を読んだ。
読みはじめてふいに涙。何かを作るということはやはり祈りというか美しい、としみじみと胸に迫ったからだ。絵やメイキングストーリーも良かったけれど、平家が喜んでいるなと嬉しくなった。別に平家の末裔とも言われたことないけど。
底本↓
そして美しいPVも置いておきたい。
アニメの直接的感想というより、周辺の考察ですが、「かぐや姫の物語にまつわる考察」シリーズと共にささやかに続けていきたい。
平家に触れた他マイnote