感想 恩讐の鎮魂曲 中山 七里 御子柴シリーズ第三作。依頼人が弁護士に非協力。これはやってられない。御子柴が感情をぶつけるところが生々しい。
普通、依頼人が弁護士に敵対する場合、弁護人は解任されるか辞任するのだが、この依頼人は御子柴弁護士にとっては恩人にあたる。だから、何としても勝つ必要があった。
彼は少年院の元教官だった。御子柴が子供の時におこした殺人事件で、そこに収監されていた時の担当の教官である。彼が真人間になれたのは教官のおかげだった。
そんな教官が殺人事件の容疑者なのだ。
彼は車いすの状態で介護施設に入所している。
そこで介護員を殺害したのだ。
本書の魅力は、この教官の罪に対する哲学だった。
それが御子柴の弁護と対立する。
被害者は日常的に入所者の年寄りたちに虐待をしていた。
それを隠して、単なる口喧嘩の末の暴力としているのだ。
それは施設の組織的虐待行為が発覚した場合、そこが終末の住処だとしている入居者たちに迷惑になるからだった。
御子柴は、無罪を主張する。
しかし、教官はわざわざ発言し、私は殺意をもって殺害したとのたまうのだ。
どんな理由があれ殺人を起こしたことにかわりはない。
だから罪を受けるのは当然だというのだ。
だから、御子柴が無罪の証拠を法廷で積み重ねると教官はそれを台無しにするような発言をし邪魔をする。
いつもは冷静な御子柴が感情を荒げるシーンが生々しく人間的であり魅力的だ。
この裁判は意味があるのだろうか。弁護士の存在意義まで疑問に御子柴は考えてしまう。
この矛盾、葛藤が面白い。
被疑者を守る弁護士と、罪を償いたいと願う依頼人。
少年院の教官だったからこそ、この罪に対する考えは鮮明なのだ。
間違ったことをした。人を殺害してしまった。だから、どんな理由があっても罪を償うべきなんだという教官の主張は一貫している。無罪なんて受け入れない。
そんな人間の弁護なんて不可能だし、嘘ばかりだし、他人を庇って何もかも自分だけのせいみたいな態度だし、これではどうしようもない。
こういう法廷劇は珍しい。
確かに、罪を犯しておいて無罪になるのは苦しい。
まだ、法で償うほうが、見えぬ何かに攻められるよりも楽だと考えるのもわからなくはない。
色んなことを考えさせられる作品でした。
2024 9 3
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