人間は、自分にとって意味があると思ったものには、ちゃんと着手できる力を持っている
今日は、デンマークという国を支える「人間観」に続いて、デンマークの「教育観」のこと。フォルケホイスコーレの学びがどういうものだったのか、わたしなりにもう一度言語化してみました。
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自分について考える道のりをノートに書く「航海日誌」
デンマークは海上貿易で栄えた国だったことから、デンマークの教育観には「海」というものが密接に関係しています。
例えば、LOGBOG(ログボー)。これは「航海日誌」という意味です。
「海」には明確な地図がなく、目に見える道もなかったので、船員たちは航海の途中、自分たちの経験した情報をノートに書いていったのだそう。目的地に着くまでにこんなものが見えたとか、こんなことが起こったとか。
それが教育機関に入り込み、「自分について考える道のりをノートに書く」という仕組みとして、LOGBOGが生まれたのだそう。
普段、わたしたちってただ生活するだけでいろんなことが起きているから、自分が感じた「違和感」とか「不思議に思ったこと」って、意識しないとすぐ流れて行っちゃうんですよ。むしろ、ちょっとした違和感なら、目の前の動きを止めないために感じないようにしてたりします。
だからこそ、そのふと湧いたものを書き留めることで、自分に質問を投げかけることができる。自分のことについて、いろいろ書き溜めていく場所ができる。
だんだんその「違和感」とか「不思議に思ったこと」を考えていく中で、自分ってこういうことを考える人間なんだっていうことがわかってくるんですよね。それこそが「自分らしさ」の種だったりするんです。
「自分のやりたいことがわからない」っていう人は、こういうのを見逃してしまっていることが多いです。
自己形成って社会がないとできないからこそ、何かに接したときの「摩擦」とか「心の反応」を見ながら、自分のことを知っていくしかないんです。
そして、そういうよくわからない、カタチのないものを言語化できる力も、実はすっごく大切。答えがなくても、一度出してみる。もやもやを誰かに話してみる。そういうことから見えてくるものって絶対あると思っています。
ちなみにLOGBOGは100%自分のノートなので、提出不要。でも、「書きつづえると、終わったときに何か感じるものがあるはずだから、やらないのはもったいないよ!」って言われました。
フォルケホイスコーレって、資格がとれるわけでもテストがあるわけでもないから、唯一LOGBOGだけが卒業した後にカタチとして残るものなんですよね。
わたしはスマホにメモ派だったので、LOGBOGはあまり使わなかったけれど、それでもそのとき書き残した「あれこれ」が、このnoteにつながっています。
フォルケホイスコーレの教育観「海を見よ」
わたしが、SOSUの授業で一番印象的だったことの一つが、この「海を見よ」という話。フォルケホイスコーレの教育観を表すエピソードだそうですが、個人的にはすっごく好きな考え方だなって思いました。
これ、めちゃくちゃ素敵だなって。
船をつくるなら、海に出かける楽しさを教えるだけでいいってことです。もちろん一緒に海を見に行ってもいいけれど、すごい先生は、海を見せなくても海の素晴らしさが伝えられる人なんだよって教わりました。
それから、「人間は、自分にとって意味があると思ったものには、ちゃんと着手できる力を持っている」というところ。それをいちばん近くで信じてあげるのが先生の役割なんですよね。
結局、先生は環境というか枠をつくることしかできないんだよねって言われました。
これを待つ時間は、今の日本にはあるんだろうかって思いました。
自分が本当に楽しいと思えることを見つけて、それに対して取り組んでいくってすっごく時間がかかること。
大人になったら近くに「先生」はいないからこそ、自分自身や周りの環境が「あなたがあなたになっていくのを待つ」余裕を持てるかって、けっこう大切なことなんじゃないかなって思いました。
学校のテストは誰のため?
デンマークでは、テストの使い方が日本とは違います。ナショナルテストは先生のために行うもので、こどもたちがテストの点数を知る必要はないって言われているんだそう。
テストの点に対してアクションを起こさねばいけないのはこどもではなく先生のほうで、先生の指導力を高めるためだったり、指導方法を見直すためにテストがあるのだそう。そして、理解度が低い子がいた場合は、学習環境だったり、生活環境に問題がある場合があるので、それを見にいくという感じだそうです。
先生は科目のスペシャリストで、ペタゴーは先生が力を発揮するために環境を整える人、と役割が分かれているのも、デンマーク特有。
ペタゴーはその子の認知能力を見て、対応を考えますが(例えば文字の読解が苦手なら、音で覚える方法を用意するなど)、お弁当の中身や友だち関係についても見ているんだそう。人間は、生活環境・文化環境が揃ってはじめて、学びに集中することができるから。「その子にとって、学校が楽しい場所になれているか?」をいつも考えている人だそうです。
自分たちの社会をつくっていく人材づくり
フォルケホイスコーレは「生きている言葉」にフォーカスしています。
教科書に書かれている言葉をそのまま鵜呑みにするのではなく、それらの理論に命を与えて、対話のなかで学んでいくことを大切にしているんですよね。
授業がきっかけになって人々の間に対話が生まれることが、グルントヴィが望んだ学びのかたちであり、「生きている言葉」であり、そこにフォルケホイスコーレが全寮制である意味があるのだと言われています。
また、当時のヨーロッパでは、上流階級で使われていたラテン語の比重が高まり、デンマーク語の地位が下がってきていたという理由もあるんだそう。
たしかに、英語で話すときって、日本語で考えてから英語にするというよりは、英語で話せる世界の中で考えているんだなって気づいたことがあったんですよね。
これはネイティブ言語に置き換えても、すっごく大切なことで。
言葉は自分の人生とすっごく密接に結びついているからこそ、言葉を雑に扱ってはいけないし、言葉の世界が広がれば、それは自分の世界を広げることにつながるのかもって思ったのです。
一方で、母語がなくなると、自分たちの神話とか過去の物語が理解できなくなるんですよね。自分たちを支えている土台がなくなるってとっても恐ろしいこと。そして、言葉は生活や価値観ととても密接に結びついているからこそ、自分たちの言葉がなくなるっていうことは、自分の思考範囲や、自分の想いを表現する方法がグッと狭まってしまうっていうことなんです。
グルントヴィはそういうことを理解していたからこそ、デンマーク人がデンマーク語を使うことを必死で守ろうとしたのかも、と思ったのでした。
本来は誰もが、自分だけの物語を持っている
ちなみにフォルケホイスコーレの先生になるには資格は必要ありませんが、先生自身が「なぜその授業をやっているか」を語れることは必要と言われています。ストーリーはすべてのものに宿っているからこそ、フォルケの授業は属人的であることが大事なんですよね。
ピクサーも「人を大切にしなければいいアイデアは生まれてこない」と言っていますが、今の日本って、真逆をいってしまってる気がします。
普段の業務においては、「属人的」な仕事を排除し、いかにシステム化するかを問うているのに、新規事業においては、個性を要求し、斬新なアイデアを求める。これはいわゆるダブルバインド(矛盾するメッセージ)なので、絶対に病む人が出てくるはず。
自分自身の人生は一つの物語なんですよね。
これ、最近やっとわかってきた気がしています。
というか、本来は誰もが、自分の物語を持っているんだということが、体感としてわかりつつあるのです。
「あの経験」とか「あのときの選択」が全部つながってきて、「あの出逢いが転換点だった」とか、「あのとき受からなかったらこそ、別の道を選べた」とか「あの痛みが新しい気づきをくれた」とか。
いいことと悪いことの区別がなくなってきて、バラバラに見えていた要素は実は全部同じ線の上にあって、選んだ道、歩いてきたプロセスのなかに自分という物語ができていたということに気づくのです。
世界はいろんな物語があるからこそ鮮やかに彩られるもの。
だとしたら、誰かと同じ道を歩く必要なんてどこにもないはず。むしろ、せいいっぱい自分の道を歩くことに意味があるんです。そういう姿勢が、オリジナルの物語を紡いで、その物語がいつか誰かを勇気づけるはずだから。
今は物語が「手段」として使われてしまっていて、量産と消費に飲み込まれてしまっているふしがあるけれど、本当は誰もが物語の中に生きている。それを思い出すだけで、人生の見え方はぐんと変わると思っています。
別の先生が教えてくれた、アインシュタインとこどもたちとの対話。
アインシュタインが伝えたかったのはきっと、イマジネーションを育むことを忘れないでねってこと。
イマジネーションは、わたしたちのひとつの言語なんですよね。わたしたちはイマジネーションを使って、新しいものを生み出していくことができる。だからこそ、イマジネーションを育んでくれるfairy talesを大切にするんだよっていうメッセージなんだと思いました。
続く。