わたしたちはどれだけ自分の周りで起きていることを知っている?
前回はシューマッハ・カレッジに到着するまでと、プログラムのはじまりについて書いたのですが、次は授業のことを書いてみようと思います。
あくまでわたしが体験したのは1コマだけなので、すべてが正しいかはわからないけれど、1年前の授業メモと合わせて振り返りながら自分なりに気づいたことをまとめてみました。
▼前回の記事はこちら
"Ecology"と"Economy"について、説明できる?
まず、最初に抑えておきたいのは、EconomyとEcologyのお話。
そのまま翻訳すると、
なのですが、シューマッハ・カレッジでは、これらの言葉をギリシャ語の語源に遡ってこう捉えています。
サティシュが言うには、エコロジーとは「自分たちが住んでいる場所について知ること」、そして、エコノミーとは「それらとどう付き合っていくかということ」。
きっと昔は、言葉そのままの意味でみんなが理解していたことなんですよね。けれど、技術革新や資本主義の浸透で、だんだん規模が大きくなって、プロセスが見えなくなって、言葉の意味もわからなくなってしまった。
そして、今多くの大学では、エコロジーを学ぶことなくエコノミー(経済)を学んでいるけれど、自分の故郷を知らないままで、どうやってそれを管理するつもりなの? とサティシュはみんなに問うていました。
加えて、エコノミーは本来とても美しい言葉なのに、なぜかお金だけが目立ち、多くの人がマネーバンキング、商業、取引、利益、予算、ボトムラインなどの管理だと思ってしまっている、とも。
たしかに、エコロジーもエコノミーも、なんとなく言葉は知っているけれど、その本質的な意味は知らなかったなと思いました。
わたしがいくつかの授業を通して受け取ったメッセージは、こんなことだったように思います。
【授業のハイライト】Engaged Ecology
一つ目の授業は、Engaged Ecology。外で焚き火を囲んでの授業でした。
最初に、講師のAndyから渡された「問い」はこちら。
ペアで話してねって言われたのですが、わたしはなんとなく「自然」とか「生き物の循環」とかざっくりしたイメージしか持っていませんでした。
Ecologyという言葉にはいくつか意味があるけれど、Andyは3つの意味でこの言葉を捉えていると話してくれました。
Andyは元々PHD(博士/学者)だったけれど、ACTIVIST(活動家)に転身したのだそう。その理由の一つは、科学は数字を測って未来予測をしているけれど、実際にその危機を食い止めたり、問題解決ができているわけではないと知ってしまったから。もう一つは、彼自身がデボン州で育ち、小さいころから感覚的に自然の大切さとか尊厳のようなものを感じていたからだそう。
そして、Engaged Ecologyは、「わたしたちがどのように世界とかかかわっていくか」を考える学問。自分たちが属している西洋文化だけでなく、世界と関わるさまざまな方法を評価し、その前提を検証したり、その根拠を明らかにしようとしていると言っていました。
Engaged Ecologyについてこの短い時間では十分にわたしは理解できていないと思うけれど、Andyのお話は、すごく人として感じるものがあったのです(これってまさに心で学ぶ時間!)。
例えば、言葉にするのが難しいけれど、Spiritualityのこと。
世界は悲劇的で、わたしたちは命をいただいて生きていかないといけない。けれど、この世界は涙を流すほど美しいということ。夕日の美しさとか、花の美しさとか、木の美しさとか、鳥のさえずりの美しさとか。そういうものを感じる精神性を、人間は持っているということ。
すべてのものは相互に影響しあっていて、絡み合っている。そして、人間は世界から切り離せない存在であることに意味がある、と話していました。
それから、livingとnon-livingの話。
この質問、日本人だと「なんの話?」ってなると思うのですよね。「それ境界線引くことに意味あるの?」ってわたしも思ったのですが、このlivingとnon-livingの会話、プログラムの中で何度も参加者から出てくるのです。
Andyが話してくれたのは、西洋の文化で育つとlivingとnon-living(何が生きていて、何が生きていないのか)ははっきり分かれるけれど、先住民たちはそもそもそれを分けていなかったということ。実は学術的にも明確に合意された「生物」に対しての定義はないのだそう。
日本人もおそらく彼の言う「先住民」っぽい感覚の民族だと思います。アニミズムっぽいというか、八百万の神信仰というか。自分は自然の一部だし、すべてのものは生きていて、そこに区切りがないことを感覚として理解している。サティシュも言っていたけれど、曖昧なまま受け入れられる感覚ってものすごい価値なのかもしれない、と思うことが何度もありました。
最後に、DoingとBeingの話。
わたしたちは「Doing(すること)」が多すぎて、「Being(在ること)」に慣れていないということ。そして行動は存在から来るということ。
それらのバランスをとる鍵は「聴くこと」。「聴く」ということは、受容的でありながら能動的でもある行為で、そこには対話と会話があるということ。
耳を傾けることなしには、お互いのことや土地のことを正確に理解することはできない。けれど、その土地で過ごす時間が増えれば増えるほど、その土地はわたしたちに必要なことを導いてくれる。
きっと、この森に来るだけで感じるものがあり、わたしたちに同調してくれる人もいるはずだと思う、とも。
けれど、どんな場所もすべてユニークなのだから、その土地の文化や物語を大切にすれば、必要なことに気づく手がかりはどこにでもあるんだよって話していました。
最後にAndyの言葉を。
【授業のハイライト】System Thinking
システム思考の講師はRobin。幼いころから「世界の仕組みを理解したい」と思っていて、シューマッハ・カレッジでシステム思考や複雑系科学、カオス理論について学んだことで、何十年も疑問に思っていたことが突然すべて理解できるようになったのだそう。
Robinが最初に話していたことはこれ。
システム思考という言葉自体は、「個々の事象だけに囚われず、全体像を捉えて、要素のつながりにも目を向けて、解決策を探していこう」ということだと思うのですが、ざっくりいうとこんな説明でした。
この授業は、室内での座学に加えて、半分が身体を使ったワークや、外でのグループワークでした。
この時間の中で、わたしが学んだことは2つ。
一つは、「不確実性を楽しみ、予測できないことを楽しむ」ということ。
西洋の文化がシステムをコントロールすることに執着している理由のひとつは、不確実性やカオスを恐れているからなのだそう。
そこで役に立つのがインプロゲーム(即興性のあるゲーム)。環境問題や社会問題と考えると難しくなるけれど、ゲームなら、事象をシンプルに取り出して、その不確実さを楽しんで体感できるから。
「握手をし合う」という行為を通して、ルールの違いと葛藤を認識しあったり、リーダーシップとフォロワーシップを経験したり。「2人から距離感をとる」という行為を通して、「感情」を変数に入れるとより複雑性が増すことを体感したり。
もちろん、カオスを体感することの学びは大きかったけれど、それ以上にわたしが感じたことは、「色々な立場を経験することで自分という存在の柔軟性も増すのかも?」ということでした。
もう一つは、「視点を変えれば見える世界が変わる」ということ。
これは、アインシュタインの言葉なのですが、還元主義的な思考で解決できないなら、違う方法で見てみようということ。つまり「世界をより正確に描写するために、世界の見方を変えること」なんですよね。
そこで、「見方を変えれば、同じ現実が違うように見えてくる」ということを体感するワークをいくつかやりました。
例えば、一つの同じ絵を見ていても、うさぎに見えたりアヒルに見えたりするとか。おばあさんに見えたり若い女性に見えたりするとか。指でぐるぐる円を描く行為をしながら、手を上下すると方向が変わって見えるとか。
シューマッハの学びは、心と身体と頭をバランスよく使うことが意識されているのですが、システム思考一つとっても「ゲームを通してシンプルに体感する」ことを通して「学びの全体性を意識させる」ってすごく納得度が高いし、相性が良いのだなと実感しました。
システム思考をもっと大きな視点で見たときに、わかってくるのは、結局わたしたちはつながりの中にいるということ。
西洋文化の中にある「分けることで分かりやすく」という分断がもたらす、落とし穴のようなものが見えた気がしました。
【授業のハイライト】Regenerative
Economics
Regenerative Economiyとは、再生経済学のこと。
Regeneration(再生)の概念を経済の文脈に落とし込んだもので、すべての人にとって健康で安全であり、循環していく経済システムを考える学問。Sustainableの先にある概念とも言われています。
そして、講師であるRuthから渡された「問い」はこちら。
1つ目のものはいったん置いておいて…
2つ目のやつめちゃくちゃ難しくないですか?!
わたしはもう、まったく何を書いていいかわからなかったです。
まず「自分の身の回りにあるものがどこから来ているか」がわからない。「経済」という言葉から「お金」をベースに書きはじめるものの、使うべき言葉も置き場所も関係性もわからない。
シューマッハ・カレッジで問われているのだから、「お金のことだけを言われているのではない」と分かりつつ(冒頭参照)、「わたしを取り巻く関係性すべて」なんてまったくわからないし、こんなに見えない世界の中で自分が生きているのか…ってことに気づいて愕然としました。
そして、Ruthが教えてくれたこと。
たとえば、あなたを育ててくれた人や友情や気遣いには「経済的価値」はないけれど、それがなければわたしたちの生活は成り立たない。そんなふうに「正式な経済システム」の外でも、私たちの生活に栄養を与え、喜びをもたらすような交換が行われていることに目を向けること。
ちなみに、20世紀の初めまでは、大学で教えられる経済学の多くは家庭経済学だったのだそう。きっとこの百年ちょいの間に「経済」の概念や付き合い方が変わりすぎて、誰もその全貌を理解できていないのかも、と思いました。
もうひとつ、ちょっと長いけれど、衝撃的なことを語っていました。
これだけを聞くとちょっと絶望感もあるけれど、ただ嘆くだけでなく、それらを変えるべく今まさに行動している人たちがいるのですよね。異なる視点、異なる枠組みを持つ多くの人々が、今主流とされている経済システムに対する代替案を主張しているんだそう。
たとえば、ニュージーランド政府が、GDPと並行して「国民の幸福度」を測定し、それらを子どもの貧困削減や妊産婦の健康改善に役立てたりしていること。他にもデンマークやブータンも「幸せ」を一つの指標にしています。
単一の支配的な解決策ではなく、その場所や規模に合わせた「経済」を考えていくということ。幸せを起点とすること、地球環境の維持を中心におくこと。大小さまざまな方法で、より良い世界をめざして行動すること。そして、それをどのように広めていけば、現在の支配的で、破壊的なシステムに取って代わることができるかを考えているのだと言っていました。
フランス語でユートピアとは「決して手に入らないもの」という意味だけれど、ユートピアは目的地ではなく、そこに向かって進むもの。
色々な方法で、わたしたちは世界を形作ることができるし、わたしたちがすることの累積的な影響こそが、世界なのだと教えてくれました(これってよく見たらすごい言葉!)。
最後にやったグループワークはこちら。
わたしは、Travelのチームにいたのですが、旅というものの価値から見直すような時間で、すごく面白かったです。
わたしは人より少しだけ「旅」について考える機会は多いと思っていたけれど、それでもここ数年で旅の概念は広がってきた気がしているし、代替案としてもかなり可能性のある分野だと気づきなおせて、こういう考え方がインストールできたということ自体がとっても価値あることだなと思いました。
最後に、 Ruthが生徒たちに伝えていることがとても素敵だったので紹介。
Head, Heart, Handsの学び
次のサティシュの記事で、これについて改めて書こうと思うのですが、少しだけ。
シューマッハでは、学びにおいて、Head(頭)とHeart(心)と Hands(身体)がそれぞれが3分の1ずつになることが理想とされています。
たしかにわたしたちって、Head(頭)ばかりを使っているし、しかも左脳ばかり使っているんですよね。
ここまで書いていて思ったのは、シューマッハ・カレッジは大学院大学なので、あくまで「高等教育機関」なのですが、それ以外を使っていることで、より腑に落ちる学びとして体験できていたのかもと思いました。
Hands(身体)を使うはまだしも、Heart(心)を使う学びを提供するって、すごく先生の人間性が問われることだと思うのです。けれど「そういう人から学ぶからこそ、人はインスパイアされていくのだ」ということが1年越しでわたしは理解することができたのですよね。
これ、教育にかかわる人は誰もが一回体感してほしい学びのカタチだし、そういう学びがあるよっていうことをわたしも広げていけたらいいなぁ。
続く。