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アーユルヴェーダは、それぞれの本質を大切にしながら、生かし合う方法でもある

前回は、Tagiru.に到着してから、折り返しのクリーニングデーまでのお話。

ここからは、アーユルヴェーダの治療を経て、わたしの中に芽生えてきたことと、少しずつ気持ちが日本に戻って行くまでのお話です。


循環のなかに生きること。新しいはじまり

クリーニングデーが終わると、3日間のシロダーラがはじまります。温かいオイルを30分間頭に流すのですが、これがすごく気持ちよくて。

もうこの頃には雑念が減ってきていて、瞑想してもあまり何も出て来なくなっていました。

自分が筒のようになって、愛を流していけばいいなって。そのためにはちゃんと受け取って、次に手渡していくことも大事だなって。わたしはただ、キレイなエネルギーが流れる純度の高い自分でいればいいだけだなって思えるようになってきていたのです。


そして、お部屋にある冊子にやっと目が向いて。Tagiru.ができるまでの物語やオーナーである修司さんのメッセージをはじめて読むことになるのです。

ホテルの絵がほんとにそのままで可愛い

そこに書かれていたのは、わたしが知っていたアーユルヴェーダよりずっと本質的なものでした。ぜひ、全文はTagiru.で読んでいただけたらと思いますが、わたしが心に響いた部分を少しだけ。

アーユルヴェーダの知識の中には、「よい生き方とはなんなのか?」という問いそれ自体が組み込まれています。
アーユルヴェーダにおいては、その対象とする範囲が一般的な「医療」よりもとても広いのです。むしろ、「生き方」という、人が生き死にする上での最上段の大きな入れ物の中に、人が癒え、治るための「実践知」としての「医療」が組み込まれているようにすら思えます。

その来歴が、今から何十層もの地層を重ね隔てたように古く、分野や専門ごとの「分断」をせずに「統合」をして、世界そのもの、もしくは人間丸ごとを理解しようとしたアーユルヴェーダは、「どう人の体が癒えるか」の知識それ以前に、「森羅万象の中において、人間とはどういう存在なのか」から問いかけ、医療をスタートさせるのです。

アーユルヴェーダを体験したり学んだりすると、色々とぶつ切りにされてお互いに縁のなくなったように感じるものどうしが、つながって全体像がみえてくるような...そんな感覚になります。ただ頭だけを使ってそう考えるのでなく、実際の「体」や「心」の自然な変化を、ともないながら。

これはまさに、わたしがTagiru.で体感していたことでした。


そしてこの冊子に書かれていたアーユルヴェーダのお話は、わたしがめざす教育の本質「誰もが自分の中に、自分の可能性を持っている」ということともとても近いものだったのです。

アーユルヴェーダは、人の体の中にはすでに自らを健康に保つ方法が「本能」として備わっていて、けれど、その「方法」や「感覚」を、本来の心や体のバランスを大きく崩してしまっている状態の中で、「忘れてしまっているだけ」だと語るのです。

「(医者が)治す」ではなく、「(あなたが)治る」という言葉を使っているのも、そのふたつの言葉に違いがあるからです。「治る」のは、そして「癒える」のは、あなたの外からやってきた「医療」によるものでなく、あなたの力と、あなたの選択によるものだと考えるのです。あなたが、あなた自身の力で「治る」ことを選んだのです。

わたしたちは、それぞれ生まれてくる意味を持っているのに、生きているうちにそれらを見失ってしまうのです。忙しさや、誰かの言葉に負けて。

けれど、生まれてきた意味を思い出すために、わたしたちには人生という時間が与えられている、と考えることもできます。

わたしたちは、自分の前に現れるものと出逢い、選択し続けることを通して、自分の人生を自分のものにしていくのだと思うのです。自ら学び、実際に体験することでしか、本当の意味で人生は前に進んでいかないのです。

アーユルヴェーダでは、根底から人それぞれの違い、つまり多様性が祝福されています。他人を見てキョロキョロせず、自分には合うかどうかだけを、考え続けていればよいのです。
ただあなたが、あなたであればいいのです。
ただあなたが、あなたのことをわかればいいのです。

アーユルヴェーダの目的は、つまり、本能的に自分が心地よく、幸福と感じられる生き方や生活を、自ら選び取れるようになることなのです。

最後の言葉は、実はデンマークの先生にもらった言葉と、同じものでした。

「あなたがあなたでいることが、一番の自分への責任だよ」

あのときわたしを救ってくれた言葉が、まさかの今日という日につながっているなんて…。まったく想像もしていませんでした。

対話型の学び、生活の中にある学び、人生を考える場所…。よく考えればフォルケホイスコーレの理念と似通う部分はある。けれど、まさかその先にアーユルヴェーダがあるなんて、2年前にはまったく思っていませんでした。


そして、わたしにとっては今、このタイミングでTagiru.に出逢ったことが、とても意味があることだったのです。


修司さんの想いに触れて、わたしの中に湧いてきたもの。

Tagiru.という場所は、目に見えるスペースを使って、身体からほぐしていくカタチだったけれど、わたしは心を解放していくことはできそうだなって。

身体がほぐれると、心がほぐれる。けれど、わたしは逆も然りだと思っています。はじまりはどちらからでもいいけれど、結果的にどちらも一緒にゆるむ、そんな時間と空間がもっとあればいいなぁと思っていて。

多くの日本人の場合は身体の限界がきていることも多いので「まず休むことから」なのはもちろんなのですが、わたしがデンマークで癒されたように、誰かの言葉が心を溶かすこともあると思うのです。

一人ひとりが自分を思い出して、その人らしさが花開く瞬間にもっと出逢っていきたいな、と改めて思ったのでした。

ロビーから見える海が本当にキレイ

生きてることって、たぶんそれだけで祝福だ

この日の夜はバーベキュー。Tagiru.では2週間に1回のペースで開催されているそう。ほとんどの人が1回は参加できるようにスケジュールが組まれていて、ちょっとその絶妙な日程設定に感動してしまったくらい。

そしてこの日はとても天気が良くて。マッサージもわたしが好きなメニューで、明るいうちにさっとシャワーを浴びて、これからみんなでバーベキュー。

お部屋の中には気持ちいい風と、海の音が響いていて。これからちょうど陽が落ちる時間で、お部屋から見える景色が本当に美しくて。

Youtubeで音楽を流して、ベランダで一緒に来ていた先輩とおしゃべりして。

バーベキューの準備をしてくれている
すぐそこはビーチ
美しすぎる夕陽(を遠目で見る)

なんだか今のわたしたち、最高の贅沢じゃない?
生きてることって、たぶんそれだけで祝福なのかも。

この1時間ちょっとの時間があまりに幸せで、なんだかまるでTagiru.で過ごす日々のハイライトのような、不思議なひとときだったのです。

あぁ。頑張って、スリランカまで来てよかったなぁ。

と、心から思ったのでした。

(アイトリートメントをした日は太陽を直視できないので、海に沈む夕陽を見にいけなかったことだけは残念だったけれど…)


そして、この日だけは、好きなものを好きなだけ食べてOK。お肉もお魚もフルーツもなんでもあって幸せすぎる夕食で、みんなで一緒にテーブルを囲んで、まるでリゾートに遊びにきたような夜を過ごしたのでした。

一番星がすっごくきれいだった
全部美味しい
波の音がBGM

一つひとつの言葉が、わたしのお守りになっていく

最高に楽しい夜を過ごした翌日。朝起きたら、なんだかめちゃくちゃ背中が痛くって、変な病気だったらどうしよう…と不安になりつつ太極拳へ。

けれどこの日の太極拳は、わたしにとって特別なものになったのです。

背中が板のようにバキバキで、もはや身体を伸ばすだけで辛い…そして原因不明なのが怖すぎる…と思いながら身体を動かしていたときにふと、

あ。これまでわたし、カラダにありがとうって言ってなかったな。

と気づいたのです。いつも健康で、何不自由なく動けていること、それ自体が奇跡だったということに。今というこの瞬間に、たくさんの感謝があることに。それはきっと、修司さんの物語に触れたことも、一つのきっかけになっていたようでした。


たしかに、わたしという存在は、ボディ・マインド・スピリットだなって。瞑想していると、この3つが別のものだってわかる気がするのです。

この身体はあくまでこの世界を楽しむための乗り物でしかなくて、けれど身体があるから芽生える感情や思考があって。そしてその本質は魂であり、大いなる存在とつながっているもの。まだまだうまく言葉にはできないけれど、なんとなく体感としてわかってきているのです。


そして、その日の最後に太極拳の先生が話してくれたこと。

スマイルが大事だよ。それはひとつのメディテーションなんだ。
瞑想は、何時間もする必要ないんだよ。
簡単に瞑想できる方法がある、それがスマイルだ。

みんな人のことを気にして、自分のことを忘れている。
わたしたちは鎖の一つであり、みんなつながっているんだ。
だから、あなたが幸せなことがみんなにも影響していくんだよ。

わざわざ寺院に行く必要はない、あなたが寺院なのだから。
あなたの存在そのものがとても尊く、大切なもの。

顔はチャクラの通り道であり、経絡が通っている。ツボをたくさん押さなくても、笑うことでいろんなスイッチが入るんだよ。

だからまず、あなたもスマイルから始めたらいい。

笑うって本当に大事だなーって。笑っているだけで誰かを幸せにすることができるし、自然と自分の周りに喜びが増えていく。自分がはじまりであり、すべてに影響している存在だとしたら、幸せであることは自分よがりなんかではないのです。

太極拳(タイチー)の先生がすごく素敵だった

朝食前にドクターに相談したところ、その日のお腹のマッサージを背中に変更してくれることに!そういう臨機応変さに、本当に助けられました。


もう一つ、何かがふっととれた瞬間があって。

わたしはどうも周りと味覚が違っていて、塩が欲しかったり甘さに敏感だったり。不安になってドクターに相談しに行ったところ、

味覚が違うのは当たり前よー。一人ひとりの体質も、ここに来るまでの生活もみんな違うんだから。

と、笑いながら慰められました。

あなたは、ここに来るまでにたぶんしょっぱいものを食べてたのよ。しょっぱいものが欲しくなるのはそういうこと(わたしは毎日、スープにテーブルソルトを入れていたのです)。

スリランカ人は今の料理よりもっとスパイシーでしょっぱいもの食べてるから、まったく心配することないわ〜って言われました。

それから、甘さに敏感に反応するのは、普段から甘いものはあまり食べてなかったという意味なんだそう(クッキーも薬も甘くて、逆に苦手だった)。

あなたの味覚は、あなただけのもの。今ここで感じていることは、それまでのあなたの生活との比較でしかないのよ。だから周りが何を言っても気にすることなんてない。そう感じている自分に気づいていることが素晴らしいわ。

あ、なんだ。わたしはわたしのままでいいんだって思って。五感だって、みんな違うものなんだって、改めて気づいてしまったのでした。

日本にいると、みんなと同じことを求められるから、自分だけ違っていることがあると不安になるんですよね(そして周りの人も「それ変だよ」って悪気なく言ってしまったりする)。

けれど、ここではみんな一人ひとり違うのが前提。「違う」ということが「わたしであること」で、その「違いに気づいていくこと」が「わたしを知ること」。なんだか優しいギフトをもらったような、わたしにとってお守りのような言葉に感じられたのです。

わたしがわたしを信じなくってどうする。わたしがわたしをちゃんと認めて、自分が大切にしたいことを選んでいけばいいだけだったんだ。

そしてこの頃には、わたしは元々KAPHA(カファ)だったのかもな、と腑に落ちるようになっていました。

日本で会社員をしていると、PITTA(ピッタ)とVATA(ヴァータ)が強くなる気がします。スピード感、革新性、情熱、行動力、推進力、周りの影響力…どれも大切なことだけれど、それが強すぎると疲弊してしまうのかもしれないな、と。

いろんなものが剥がれて、自分に戻っていく流れの中にいるみたいでした。

属人的であることはいいこと?悪いこと?

あるときマッサージを受けていて、ふと思ったこと。

愛を持って行いをしている人は、なんとなくわかる気がする。

本人が気づいていなくても、意外と受けている側はわかってしまったりする。「この人はこの仕事ほんとに好きなんだろうなー」とか「この人たぶん、この仕事楽しいと思ってないだろうなー」ってことが。

ならば、愛を込めたほうがいいよなぁと。どんなに小さなことでも、必ずそれは相手に伝わっていくし、愛は広がっていく性質を持っているから。「その行為には愛はある?」って自分にも問い直そうって思いました。


ちなみにTagiru.では、働いている人たちの顔と名前が、ボードで貼り出されています。序列に意味があるのかな?と思ったら、あまり上下関係はない職場なのだそう。

だんだんみんなの顔が見分けられるようになる

日本で耳にする「属人的な仕事」ってあまりいい意味ではないですよね?

その仕事を「誰でもできるように」システム化・マニュアル化しておくことが大切。たしかに、大企業であれば、そのほうがサービスの受け手にとっては「質」が均等に保たれるし、メンバーにとってもサポートし合える。けれど、それって「人」より「仕事」が優位に立っている考え方でもあるなって。

「”その仕事”をしている人」よりも、「”その人”がやっている仕事」というほうが人間らしいなって思ったのです。

もっとわたしたちは、自分たちが人間であることを認めていかなければ。

セラピストの皆さん

そして、一つひとつのことが「そのことを心から愛している人」から学べる場所があったらいいのになぁと。今は自分らしさが芽吹く場づくりをめざしているけれど、ゆくゆくは「教育」の意味が変わる場所をつくりたいなという思いが湧いてきたのです。

特定の仕事の「スキル」を学ぶのではなく、その仕事をしているその人の人生を通して、「自分の人生をめざめさせていく」ような学び。社会を創る一人の在り方をたくさん知っていくような学びが増えていけばいいなって思っているのです(その原型が、フォルケホイスコーレの思想にもあるのです)。


わたしたちは、いつもひとつの物差しで見ようとするから、「評価」とか「差別」が生まれてくるんですよね。物差しがたくさんあれば、それはその人のオリジナルの輝きを見つけるアンテナになるはず。

と、こんなことを考えつつも、この日に受けたマッサージが全部気持ちよさすぎて。ほわほわ溶けてしまいそうになりながら、「人間ってこんなに気持ちよく生きられるんだ…」と思っていたら、いつの間にか寝てしまっていたのでした。


そして翌日。「物差しって一つじゃないよなぁ」と。というか、そもそも物差しって人に使うものだっけ、と。

人にもモノにも「相性」というものがあります。それはつまり、わたしに合うものがみんなに合うとは限らないということ。自分に合うものを自分がちゃんと知っていなければいけないということ。

ここで受けるトリートメント一つとっても、もちろん経験の差はあるけれど、みんな自分が好きなセラピストさんが違っていたのです。

「あの人は力が強くて気持ちいい」
「あの人は手が柔らかくて癒される」
「あの人は痛いけど、いい感じのツボをついてくる」

そして、だんだん「あの人の」「あの施術が」自分に合うということもわかってくるのです(Tagiru.では最終日好きなトリートメントを選べるので、こういう情報交換がたくさん行われます。笑)。


そして、アーユルヴェーダで言われる「無知」って、こういうことなんじゃないのかな? と思えてきたのです。

「あらゆる病気・不幸は『無知』からやってくる」
人は、生活習慣やストレスなど、さまざまな理由から心と体のバランスが崩れていくことで、心身が混乱し、知覚や感覚が鈍り、自分自身の本能がわからなくなっていく、と考えます。
その状態をアーユルヴェーダでは「無知=プラギャ・アパラーダ(叡智を喪失した状態)」と定義しています。
人は、心身のバランスが整っている時、自分の本能をしっかりと感知して、「自分が欲しいものは何なのか?」「自分は何をしたいのか?」「自分はどうすればこの健康を維持できるか?」といったことを自ら知ることができる、と言います。

Tagiru.冊子より

自分に合うものを自分で選んでいけることが、健康をつくり、心地よい生活を生み出していくということ。

自分のことを知り、周りとの違いを認めることで、才能を活かした仕事を手にできるということ。

自分という存在をまるごと受け入れて、相手を心から尊重し、信頼することで、本当の意味でのパートナーシップが始まるということ。

この言葉は、すべてに関連するとても大切な言葉なのかもしれません。

アーユルヴェーダとは、自分を認めること

そして、いよいよ、最後日の面談・・・。

簡単なヒアリングと脈診をして、アフターの結果を教えてもらいます。もはや、この数日間ちゃんと生活してたか「最後の審判」を受ける気分。

どきどき。





なんと…

すべてが完璧に元の性質に戻っていたのです!!!

上段が元々の体質、下段が今の状態

No problem.

ってカルテに書かれて、わたしの最終審判はあっさり終わりました。笑

わたしって、思っているよりちゃんと健康だったなって。

もちろん環境の力は借りつつだけれど、2週間でそこまで戻せる身体ってこと。ちゃんと、身体は自分のあるべきところに戻る力を持っているんだなってわかって、なんだかちょっと嬉しくなりました。


それから、この2週間は、KAPHA(カファ)である自分を思い出して、認めていくような時間でもありました。

重たくて湿っていてどっしりしているという性質だけでなく、安定していること、滑らかにすること、構築すること。それから「水」の元素が持つ「優しさ」とか「育む」性質とかって、すごくわたしらしいなと思えてきたのです。

ちなみに、KAPHA(カファ)はエネルギーを溜め込めるタイプ。意識しないと動かなくなりがちだから、ちゃんとそのエネルギーを使っていくことが大事って教わりました。


自分の身体が持つ性質を知ったうえで、良いバランスに整えていくこと。否定したり、ないものを求めるのではなく、今あるすべてをまるっと受け入れて、それらを生かしていくこと。

そういう考え方をまた身体でインストールした気がしました。

一応推奨されるお食事のリストとかはもらうのだけれど、特に気をつけることはないから、好きなもの食べていいし、継続のお薬はなしだよーって。本当かどうか確かめようもないことだけれど、ドクターからお墨付きをもらったようで嬉しい気持ちになったのでした。

Doingは、時間を経てBeingになっていく

面談の後、なんでも好きなこと聞いていいよって言われたので、雑談を。

Tagiru.にはドクターが2人いて、名前はそれぞれAshoka(アショカ)と、Radha(ラーダ)と言います。最後に2人がどんなふうにアーユルヴェーダと出会って、その価値を感じているのか、聞いてみたのです。

右がアショカ。真ん中がラーダ。

ラーダはお母さんの希望でお医者さんになったんだそう。最初は西洋医学のお医者さんになろうとしたけど、成績が足りなくてアーユルベーダのお医者さんになることに。けれど、今となってはむしろこの道でよかったと思っているし、まだまだ勉強したいと思っていると話してくれました。

ラーダはまだ30代だけれど、すごく優秀なのに努力家でもあります。精神レベルもすごく高い人で、朝は毎日アファメーションからはじめるのだそう。

自分は今日1日、ドクターとしてどう生きるか。
そして、周りの人たちにどんな影響を与えられるか。

ちゃんと、自分の道を自分のものにしていこうとしている感じがして、すごく素敵だなぁと思ったし、こういう人が診てくれることもすごく嬉しいことだなと思ったのです。


そして、2人は東京に来たことがあるので、「実際に体験した日本はどうだった?」って聞いてみたら、

日本人は急ぎすぎだと思う。
みんな3分待てば来る電車のために走ってるでしょう?
スリランカなんて1時間後だとしても、誰も走らないわ。笑

目的を持つことももちろん重要だけれど、もっといまこの瞬間を大切にするべきだと思う。未来や過去ではなく、いまここにある今日という1日に目を向けること。周りの環境や他人ではなく、わたしという人間を知ること。

わたしを大切にすることからはじめないとね。


チーフドクターのアショカにも、いくつか質問をしてみたのだけれど、なんだか不思議とこのときは言葉がまったく役に立たなくて。

アショカは、言うなればBeingの人。

アショカ(Ashoka)とは、2200年前、その木の下で、仏教の開祖・ブッダが誕生したと言われる「無憂樹」(むゆうじゅ)のことを指すそうです。

彼女は代々アーユルヴェーダの医師の家庭に生まれた人。アショカにとってのアーユルベーダはもはや生活であり、人生そのものなのかもしれません。

おそらく彼女は、知識と経験だけではなくて、受け継がれた「血」で脈を見ているのだと思うし、アショカに優しく触れられると、それだけで病気が治る気がしてしまうのです。

まさに、スキルではなく、その存在に人を癒す力がある感じ。


職業選択の幅がけっして日本ほど広くはないスリランカで、アーユルヴェーダの医師という仕事を選んだ2人を見ていて、感じたこと。

それは敷かれた道でも、意味を見つけることはできるのだなということ。そして、そのことと丁寧に向き合うことで、その人のDoingはいつの間にかBeingと重なっていくのかもしれない、とも思わされたのです。


その後、日本人スタッフの明奈さんと話していて。

知識を知って、体験で学んで、今度はどう日常とそれらを腹落ちさせていくか。それが本当は一番難しいんだよね。
わたしもインドに行って、Tagiru.に来て、でもそれ以上に日本に帰ってからがけっこう大変で。けど、人ってそういう極端な経験を経ることで、中庸がわかっていくんだと思う。

わたしもそうだったんだけど、ここは元気なときにくると、気づきが深くなるんだよ。だから、帰ってからの経験もすっごく大事にしてほしいかな。

すぐ後に最後のトリートメントが入っていて、長くは話せなかったけれど、ここで2人で話した時間が、一番明奈さんの素敵な部分に出逢えた気がして。もっと最初から色々話してみたらよかったなーと思ったのでした。

明奈さんはいつ見てもおしゃれ

わたしはきっと、日本を選んで生まれてきた

ここまで2週間、いろんなことを感じたけれど、振り返ってみればなんだかあっという間だったなーと。

ほとんどTagiru.にいたので、スリランカであってスリランカでないような。けれどこの国は、外をドライブしていてもなんだかすごくピースフルな国という印象でした。住む人たちが明るくて、フレンドリーで、資源が豊か。宝石や紅茶やスパイス、果物や森林など自然環境にも恵まれている場所。

教育も医療も無料だから、子どもがたくさん生まれてくる。まだ平和を手にしてから20年も経っていないから、日本を含めて他国の経済補助や観光資源、資材輸出がベースになって国が支えられているようでした。

ここに住む人たちは、過去や未来よりも、今この瞬間を生きている感じ。

けれど、もしわたしがここに生まれていたら「何かをめざす」という気持ちはたぶん生まれてこないなって。未来への不安や憂いが少ないのはいいことだけれど、人としての成長とかまだ見ぬ世界の広さとか、そういうことには目が向かないだろうなぁと。

それは、いい悪いではまったくなくて。資源が豊かで、人のつながりがあって、今をピースフルに生きられるなら、それはそれでとっても幸せなこと。

けれどわたしは、広い世界を見たくて、いろんなことを経験したくて、この時代の日本という場所に生まれて来たのかもなって気がしたのです。


日本に生まれて、ヨーロッパに興味を持って、今このタイミングで南アジアに辿り着いたこと。ここまでの道に納得感はあるけれど、きっとまだこの先わたしが想像していない何かが待っているんだろうなって。

わたしたちは、時間と空間の掛け合わせで、生まれてくる場所を選んでいるような気がするのです。きっと「その時代に」「その場所で」しか学べないことがあるから。そういう背景を手がかりに、自分の物語を知っていくという方法もあるなって思いました。

いまの日本という国は、自分の人生を自分らしく描いていくには、すごくよい舞台だと思うのです。生活の最低レベルが保証されていて、新しさと古さが残っていて、まさに今変化の時代を迎えている場所だから。海外に出ると実感するけれど、日本のパスポートは本気で世界最強です。

だからこそ、わたしの経験を、わたしだけのものにしないこと。一つひとつ伝えていく中で、わたしの行動が誰かのきっかけになるかもしれないから。

人生の転機は、迎えにいくこともできるはず。少なくとも、Tagiru.はわたしにとって、そのきっかけをくれる場所でした。


さて、気づけば1万字を超えてしまったので…この体験談はここまで。

ちなみにTagiru.には、ここに書いていない楽しさや魅力がまだまだたくさんあります。ぜひそれは、実際に訪れて、体感していただけたら嬉しいです

この体験談がわたしと同じように、誰かのきっかけになりますように。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

SAYONARA

======<お知らせ>======

9月・10月に都内でワークショップを開催します。途中で出てきたデンマークのフォルケホイスコーレのこと、イギリスのシューマッハ・カレッジのこと、Tagiru.で経験したことについてもお話する予定なので、もしご興味がある方はお越しいただけたら嬉しいです。

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