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思いついたレトリックが既出だったとき
今日、散歩をしながら短歌を考えていて、ひとつのレトリックを思いついた。
虹が燃える
終末的な状況、もしくは一縷の希望や夢を託したいものが惨状を示す絶望的な感覚の表現として、「これはいけるのではないか?!」と思えた。今考えている短歌に組み込んだり、いつか作りたい連作短歌のタイトルに組み込んでもいいかもしれない、と思った。
「でも、待てよ」ふと不安になって、ネットで検索してみた。こういう時、やはりウェブは便利だ。すると、
どん被りである。もう少し調べればまだ出てくるのかもしれないが、少なくともすぐに2作品が見つかった。美内すずえは少女漫画に疎い私でも知っているビッグネームだし、石森史郎は寡聞にして知らなかったが、少し調べただけでも脚本家として多大な業績を残してきた人だとわかった。
もちろん、「燃える虹」がそれぞれの作品中でどういう修辞として使われているのかまではわからない。が、やはりちょっと使いづらく感じる。
というわけで、新たなレトリックをまた考え始めたわけだ。
しかし、疑問には思う。こんな風に、思いついたレトリックが既出だったとき、他の歌人や詩人の人たちはどうしているのだろう。
詩作において、既出のレトリックの森をすり抜けつつ、過去まだ誰もたどり着いたことのないレトリックを探し続けているのだろうか。
それとも、例えば今回の場合であれば、少なくともこの2作品を目を通し、そのニュアンスが自分のイメージと合致していて、しかもどうしてもこの修辞が最良だ、という確信があれば、オマージュの意も込めつつ、使ったりするのだろうか。
この辺、他の歌人や詩人の方にうかがってみたいところである。