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一首評:久保哲也「2021年11月22日 毎日歌壇」掲載歌

四季のうち秋ぐらいだよ自転車の前カゴにいておとなしいのは
久保哲也(2021年11月22日 毎日新聞 毎日歌壇 加藤治郎 選)

言葉のたくみな選択が自然な口語感と解釈の自由さを生んでいる短歌ではないかと思う。

この短歌を選んだ歌人の加藤治郎もその評で書いているが、「この自転車の前カゴにいておとなしい」のが何者なのか明記されていないのが、まずこの短歌の第一の魅力だろう。

「自転車の前カゴ」でおとなしくしているのは、犬かもしれないし猫かもしれない。もしかしたら、もっと突拍子もない生き物かもしれない。冷静に考えれば「秋ぐらい」しかおとなしくしない生き物って、本当にいたっけ?などとも思えてくる。

しかし、私はこの短歌を初めてみたとき、もっと突拍子もない光景が頭に浮かんだのだ。それは、

秋という季節そのものが自転車の前カゴに入っておとなしくしている

という、大変シュールなイメージだ。

そこからもっと想像を膨らませれば、この秋を自転車の前カゴに入れて喋っているのは「何者」なのだ?ミヒャエル・エンデの『モモ』に出てくる時間泥棒である「灰色の男たち」よろしく、こいつは季節を盗んでいく使者なんじゃないか?そう言えば、今年の短すぎた秋はどこへ行った!?」それもこいつが自転車で連れ去ったんじゃないのか。おい!

……などと、朝から妄想が加速してしまった次第である。

さて、ではこの短歌の何が、私をそんな読みに導いたのだろうか。それはおそらく初句の「四季のうち」であろう。

もしここが「一年で」といった言葉であれば、素直に「一年のうちで秋という時期ぐらいしか、前カゴに入っているおそらく犬か猫は、おとなしくしていない」と解釈していたと思う。

ところが、ここで使われている「四季のうち」という言い回しだと、「一年のうちで」という意味ももちろん持っているが、「四季の構成要素である春夏秋冬の(メンバーの)中で」という意味も持たせられるのだ。

このように読み取った途端、自転車の前カゴに入っているのは、なんらかの生き物ではなく、秋そのものになってしまう。突然立ち現れるシュールな光景におののく。

とはいえ、ここで一つ疑問が生じる。普通の会話を想像してみれば、「四季のうち」なんて言い方はおそらく使われない。普通は「一年(の中)で」の方だろう。つまりはこれは不自然な口語のはずだ。

にも関わらず、これが自然な口語短歌として、心に届くのはなぜだろう。実は、これもまた「四季のうち」という言い回しの選択が奏功しているのではないだろうか。

この短歌の音の配置に注目してみる。二句、三句、四句に「秋らいよ」「転車の」「前カにいて」と濁点を含む強めの音の言葉が集中している。一方それを挟み込む初句と結句は「四季のうち」「おとなしいのは」と、濁点を含まない、すっとした言葉が配されている。こうすることで、歌の中で、中央部に音の強さのピークがくるイメージになる。

考えてみると、人との会話において、最初から最後まで強く伝わる言葉が並ぶことはあまりない。導入部はごにゃごにゃと入ってきて、なんとなく話したいことを話して、終結部もまた少しごにゃごにゃしつつ聴き終わる……そんな感じが、会話のリアルなのではないだろうか。

あるいは、街を歩いていてふっと耳に入ってきた、誰かの会話、もしくは独り言。これらはなおさら、最初の方は何を言っているが捉えられなかったりする。ふと聞こえてくる話し言葉のリアルだ。

四季のうち」という言葉は、会話に使われるか否かという点では口語として不自然かもしれないが、フレーズ全体の強弱のリアル感はうまく演出しているのではないか。もしこれが「一年で」だと、濁点はないものの、撥音が含まれているためか語感が強めだ。すっと入ってくる感じに少し欠ける。

以上より、この短歌は、特に「四季のうち」という言葉の選択のうまさによって、語感の上での自然な口語感と、意味の上での解釈の自由さを両立させたものであると、私は考える。

愉快で、それでいて少しだけ不穏な、つまりは魅力的な短歌である。

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