解明されたストラディヴァリウスの秘密
アントニオ・ストラディヴァリ(Antonio Stradivari)とジュゼッペ・グァルネリ(Giuseppe Guarneri ‘del Gesù’)による楽器製作の秘密が今年(2021年)6月に判明しました。
ストラディヴァリウスの秘密と仮説
「ストラディヴァリウスの秘密」としてこれまで有力とされていた仮説は2006年にテキサスA&M大学(Texas A&M University)Joseph Nagyvary教授が提唱した「ワニス説」(varnish theory)です。「ワニス説」という名称ですが、実際に『Nature』で発表された研究(査読論文)「Wood used by Stradivari and Guarneri」(DOI: 10.1038/444565a)で指摘された内容は「材料である木材が化学処理されている可能性が高い」というものでした。
「ワニス説」(varnish theory)とは?
ストラディヴァリウス(以下「ストラディバリウス」と表記)の秘密は「材料である木材の化学処理」にあるというのが「ワニス説」です。後にも触れますが、この点に注意が必要です。
「ワニス説」以外の蓋然性が消滅
その後、ストラディバリウスに関する形状や材質(木材)など様々な研究(※1)が進んだ結果、使われている「ワニス」自体は一般的なものと違いがないことは指摘されましたが「ワニス説」以外の蓋然性が淘汰され、2016年にはストラディバリウスの秘密はやはり「ワニス説」でほぼ間違いないだろうということに落ち着きました。このことは『The New York Times』「The Brilliance of a Stradivari Violin Might Rest Within Its Wood」などとマスメディアで報道されたのでご存じの方も多いと思われます。
註)※1
E.g.「3-dimensional laser Doppler vibration analysis of Stradivarius violins」「A Comparison of Wood Density between Classical Cremonese and Modern Violins」「Relationship of vibro-mechanical properties and microstructure of wood and varnish interface in string instruments」など。
木材の化学処理「ワニス説」で決着
さらに、2016年12月19日に台湾大学(NTU)の研究者らによってストラディバリウスの木材にアルミニウム、カルシウム、銅などで化学処理された痕跡を発見したことが発表(『National Academy of Sciences』「Chemical distinctions between Stradivari’s maple and modern tonewood」DOI: 10.1073/pnas.1611253114)されると「ワニス説」は決定的なものとなりました。
処理に使用された化学薬品が判明
そして今回、5つの国や地域から14の大学や研究機関、30人の研究者が集結し、「ワニス説」の共同研究と徹底検証が行われました。参加した30人の研究者には「ワニス説」の提唱者であるJoseph Nagyvary教授も含まれます。
その結果が『Angewandte Chemie』(2021年6月1日)に掲載された研究(査読論文)「Materials Engineering of Violin Soundboards by Stradivari and Guarneri」(DOI: 10.1002/anie.202105252)であり、今回の研究でストラディバリウスの木材処理に使用された大方の化学薬品が判明しました。
木材処理に使用された化学薬品
ストラディヴァリ(以下「ストラディバリ」と表記)とグァルネリ(以下「ガルネリ」と表記)が材料の木材を処理するために使用していた化学薬品は主にホウ砂、亜鉛、銅、ミョウバン、および石灰水でした。
ホウ砂はホウ酸ナトリウムとも呼ばれ、自然界では湖の季節毎に繰り返される蒸発できた蒸発残留岩に存在する。現在でも家庭の洗濯・掃除用に使用されているが、嘗ては害虫を殺す殺虫剤や殺菌剤としても使用されていた。銅鉱石に含まれることが多い硫酸銅や硫酸亜鉛も同様の目的で使用されていたとみられる。硫黄、アルミニウム、カリウム、ナトリウムなどのミネラルを含むミョウバンを加えることで木材の中に弱酸性の環境を作り、カビの発生を防いだ。また、岩塩は調湿剤として添加されており、微生物やカビが繁殖しにくい乾燥した状態を保つと同時に、湿度の変動による楽器の変形を防いでいた。
十分な処理を受けた標本ではヘミセルロースの断片化とセルロースのナノ構造の変化が見られ、第二次高調波発生信号の減少を示した。
解明されたストラディバリウスの秘密
これらの化学薬品で処理された木材に含まれる水分量は未処理のものに比べ約25%低減することが分かっています。木材の響板は水分が少ないほど音の輝きを増すので、弦楽器の水分量は非常に重要なのです。
ストラディバリウスの秘密は「材料である木材の化学処理」にあるというだけでなく、今回の研究では使用された具体的な化学物質(化学薬品)まで特定されました。改めて、「ワニス説」という名称なので紛らわしいですが、今回の研究結果でも「The varnish recipes were not secret because the varnish itself is not a critical determinant of tone quality」と研究者が注意喚起しているように「ワニス」自体には秘密はなく一般的なものだとされています。
今後の課題
残る疑問としてこの化学処理手法がなぜ途絶えたのか?他に伝承された楽器製作者はいないのか?フランチェスコ・ゴベッティ(Francesco Gobetti)などは木材に対してこのような化学処理を行なっていないのか?等々は未解決であり、今後の課題と言えます。
ストラディバリウスはプラセボ効果
ただ、あまたの研究が示している通り、ストラディバリウスの実態は「プラシーボ効果」(プラセボ効果)でしかありません。フランス国立科学研究センター(CNRS)やミシガン大学(UMich)の研究者らが行なったダブルブラインドテスト(二重盲検試験)による研究(査読論文)「Player preferences among new and old violins」(DOI: 10.1073/pnas.1114999109)に代表されるように、二重盲検法においてストラディバリウスと現代ヴァイオリン(以下「現代バイオリン」と表記)を聴き比べた場合は大多数の人々が現代バイオリンの方が音が良いと評価しました。
この研究において21人のヴァイオリニスト(以下「バイオリニスト」と表記)による評価で最も音が悪いと判定されたのがストラディバリウスでした。バイオリニストのみならず、類似のストラディバリウス聴き比べダブルブラインドテスト(double blind test)が数多く実施されていますが、ストラディバリウスの方が音が良いと評価された試験結果は皆無に等しいと言って過言ではありません。ストラディバリウスの音色が優れていると感じるのは音響心理学的な幻想なのです。
人類の地道な進歩
ストラディバリウスの秘密は最近漸く解明されましたが、名も無きモダンおよびコンテンポラリー楽器製作者たちは疾うにストラディバリやガルネリを超えていました。伝説を通り越し、地道ながらも人類は着実に進歩していたのです。