4回目の「君たちはどう生きるか」・2つの物語の後(2024/01/15に書いていた日記)
吉野 源三郎 著 「君たちはどう生きるか」、ジョン・コナリー 著 「失われたものたちの本」の読書体験を経て鑑賞。
これは…コンプと言って良いのではないでしょうか?!
「失われたものたちの本」で印象的だったのは「幼さ」の描写だ。
通常、物語では大人になるにつれて人は思慮深くなり(視点が増え)、地位を失う事を恐れ保身的になり、行動力(勇気)を失う。
しかし「失われた本たちの物語」では、「幼さ」を不安と恐怖で表していた。知らない事、環境が自分の意志とは関係なく変わっていく様、自分へ向けられる愛情が変化していくこと、近視的なものの見方、自分から見える感じる世界が狭くて、だから世界が「怖くてしょうがない」。主人公のディヴィットはそんな感じだ。
そんな彼が、誰かを信じる事、友情を育む事、優しさを疑う事、誰かを罰する事、自分で出来る精一杯が何なのか、自分の弱さを受け入れて、情けなく思い、考え、決断する事、自分は守られる側ではなく守るものでもあると自覚する事、責任を持つはじめ一歩には「勇気」が必要。この勇気を持つことを失われたものたちの本では「大人になること」としていた。ディヴィットが大人になって物語は終わる。
物語の最後に、ディヴィットは親族全ての死を見送って、最後はまた物語たちに囲まれてを死を迎えるのだけれども、最後に戻る場所がまた「失われた本たちの物語」の世界であることをどう受け止めたらいいんだろうな。宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」と重ねてみてしまう。
やはり宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」は、ある種、遺書みたいなものなのかもしれない。
不安と恐怖は、幼かった大叔父や主人公が生み出した物なんだけれども、大叔父が生み出した物が世界を変える突破口にもなった。
ねじれ男は永遠の命を得るために、ディヴィットに国の「王」になることを迫る。王は世襲制ではなく、ディヴィットの世界から連れてこられた(神隠しにあった)子供がなる。ねじれ男に生贄をささげ(王候補として選出された者が「自分の世界から消えてもらいた人」)の名をつげて)世代交代が完了する。
一見、王になった者はねじれ男に全てを与えられたかのように見えが、実際にはねじれ男に全てを支配される。
王が出来る事といえば、この箱庭のような世界の王となって君臨する事、ただそれだけなのだ。
う~ん……。
これって…どう受け取ったらいいんだろう?
「君たちはどう生きるか」と「失われたものたちの本」両方を読み終えて、確かにこれは宮崎駿版「君たちはどう生きるか」の原作ではないな…と分かるんだけどじゃあ影響されていないか…と言われるとそうでもないよな~って感じだ。とはいっても要素をつなげて、アレは何かのメタファー…と細かく考えるような内容では無い気がするんだな。
でも読んでみて改めて「納得」と思えたところもある。何がどう納得なのか…と言われると難しいのだけど……、宮崎駿監督から見えていた世界と言うか、そういうものの片りんを覗けた気がするんだな。
「失われたものたちの本」で「君たちはどう生きるか」に近いキャラって誰だろう。
ディヴィットを物語の世界へ引き込んだ王が大叔父のような気もするし、最初と最後、導いてくれた木こりが大叔父のような気もする、「お前の思う綺麗な世界を作りなさい」(みたいな台詞)を言ったねじれ男が大叔父と言う気もするんだけど……。
NHKのドキュメンタリーでは「大叔父」を高畑勲監督、「眞人」を宮崎駿監督…というふうに演出していたけれど、
仮にそうだったとして、
吉野 源三郎原作の「君たちはどう生きるか」の大叔父は主人公を導く者、人はこうでありなさいと道徳と礼節と品性と矜持を教える者だったけど、ジョン・コナリーの「失われたものたちの本」の叔父は現実の不安と恐怖に立ち向かえなかった未熟な大人(王)という立ち位置だ。
吉野 源三郎とジョン・コナリー原作2作を読んで改めて思うが宮崎駿監督はとにかく自身のイマジネーションを具体化し、映像化することがすごく上手いのだと思う。
文学、絵本、伝承、哲学、そこから得たイマジネーションと自分の主張や思いをアニメに昇華させるのがとびきり上手い。上手いなんてものじゃなくて、本当に天才だ。
その発想を支えるのが、これまでの経験(学習であったり、人付き合いであったり、東映での仕事であったり、高畑勲監督との共闘であったり…)なんだろうな…と。
ありとあらゆるアーカイブに「宮崎駿監督は自分が言った事を覚えていない」(今を生きているので、自分が作ったものが何かに影響されているとか考えない)と記載されているので、宮崎駿監督自身は自分の脚本に出てくる言葉たちに元ネタがある…だなんて思っていないだろうしな~。
原作本を読めば何かがわかるかも…と思ったけど、分からない事が増えたな。これ以上はもう考えても何も見つからない気がする。
というよりも、作者が何を考えて作ったのか…みたいな野暮天なことに囚われずに思った事を思ったままに受け取って、自分の「君たちはどう生きるか」として消化していったほうがいい。
このままだと「私が考えた完璧な君たちはどう生きるかの考察」みたいな思考になっちゃいそうだ。
しかし~……それでも私からすれば、宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」の大叔父は高畑勲監督だな~って思っちゃうな。
主人公に、道徳と哲学と倫理を解き、それでいて宮崎駿監督(眞人)を死の世界(異世界)に招いた大叔父は高畑勲監督だろう。
高畑勲監督が存命で合った時…きっと、未来に投じるに値する映画を作ってくださったんだろうな…と妄想してしまうのです。
消費することが価値とされている今の世界に、一石を投じる一作を作ってくれただろうな…と。
最近、色々な事で感情がぐちゃぐちゃになってしまったのでここで終わり。(2/11に書きました)