【アーカイヴ】第188回/過去からの手紙のような、未開封のレコードたち [鈴木裕]
たまたま未開封のアナログレコードを聴く機会が続いたのでそのことを書いてみたい。
高校から大学生の頃に知った好きなヴァイオリニストの一人がワンダ・ウィルコミルスカ(Wanda Wiłkomirska)だった。1929年にポーランドに生まれた女性だ。今でこそネットで調べればさまざまな情報にヒットするし、YouTubeでたくさんの動画を見られるが,1970年代の後半から80年代初頭にかけての自分にとっては、年齢、国籍、経歴等、何もわからない存在だった。
たぶん最初に購入したアルバムは『アンダルシアのロマンス~ウィウコミルスカ・リサイタル』(フィリップス X-7545)だった。ヴァイオリンというと、甘美なとか、艶のある音色感という言葉が使われがちだが、ほの暗いとか、苦いとか、重い情緒という言葉が似合うようヴァイオリニストだ。そのあと、ブラームスやディーリアスのソナタのアルバムを手に入れて聴いていた。
その名前を久しぶりに意識したのは、昨年(2017年)の夏。e-onkyoの仕事でヴァイオリニストの石川綾子さんにインタビューして原稿をまとめた時だ。石川さんのプロフィールではオーストラリアでの師匠がウィルコミルスカだったのだ(https://www.e-onkyo.com/news/782/ )。久しぶりに聴きたくなってブラームスのヴァイオリンソナタ集とか上記の小品集を聴いたのだが、あるはずのディーリアスのソナタ集は見当たらなかった。
3月の終りに、友人との会話の中でもディーリアスの名前が出てきて、あらためてたまらなく聴きたくなった。こんどは本気になって探したが、探しながらいろいろと思い出していったところ、あるヴァイオリニストにその譜面ともどもレコードを進呈してしまった記憶に辿り着いた。ここでトーマス・マンの「過去という泉は深い」などといった名文を引用するのも気が引けるが、ほんとにいろいろなことを忘失している。ないものは仕方ない。ネットで検索するとたまたま未開封のアメリカ盤が売られていて購入した。
かくして30年以上ぶりにディーリアスのヴァイオリンソナタをウィウコミルスカの演奏で、レコードで聴いた。さすがに感慨はあった。記憶通りの音楽と演奏とも言えるし、記憶以上に沁みたとも言える。まず、オーディオが良くなっているのだ。
そもそもご存じのない方のために説明すると、3曲のヴァイオリンソナタは技巧的にはそんなに難しい曲ではない。譜面を買って弾いていたくらいだから。ただし、音楽的にはぜんぜん歯が立たない感じだった。ひとつの音、ひとつのフレーズに表情とかニュアンスが要求される音楽で、譜面づらを弾けたとしても音楽として成立しない種類の何かだ。フランクのヴァイオリンソナタの1楽章などを思い出していただけるといいかもしれない。
別の言い方をするとオーディオにいろいろと要求するところの多い音楽とも言っていい。ピアノの低域、ヴァイオリンの倍音までを十分に再現するためのレンジが必要で、音色的には偏りがなく、微妙なデュナーミクの変化を表現できなければならない。もっとも大事なのは音色の階調表現だ。英語でトーナル・フィデリティという言葉を使った方がわかりやすい方も多いだろう。色で言えば、桜色と桃色となでしこ色の描き分けみたいなことを音色感に対してできないと演奏の良さが、ディーリアスの良さが出てこない。
ウィウコミルスカのヴァイオリンとデヴィッド・ガーヴェイのピアノを聴きながら、記憶通りの演奏でありつつ、もっと深いところまでを楽しんでいる自分に気がついた。オーディオも良くなっているが、自分が歳を食ったということも大きいのだろう。多くの人と接し、さまざまな世界と付き合い、失敗も恥もわんさかな人生だ。同じ盤を聴いているのに、違う音楽が鳴っているように感じる瞬間もあるという、不思議な体験だった。
未開封盤の話題。もうひとつはもっと枚数が多い。
10年ほど前に亡くなったお医者さん。そのレコードとCD類が処分され、ある場所にまとめられていた。そのコレクションから好きな盤を選べたのだった。コレクション全体は枚数でいうと3~4万枚くらいはあっただろうか。その中から自由に選んでいいという。行ってみると20畳くらいの部屋の中は壁中レコード棚だし、CD等は間仕切りのような棚に収められていた。ちょっと暗い部屋で、足もとも整理されていなかったので、脚立と懐中電灯と5時間ほどあればすべてのタイトルを見てからもっとたくさんの枚数を選べたのだろうが、3~40分の中でさっさと棚から抜いていった。
まず目についたのはマリア・カラスがソプラノを歌っているオペラだ。まとめられていたということもあるし、2枚組でもボックスになっているため背表紙が見やすい。とにかくそのあたりを抜いた。その後に、さてはて自分は何が聴きたいのかちょっと考えた。バッハ全集とかマーラー全集とかベートーヴェン交響曲全集とかもあるのだが、ヴァイオリンコンチェルトが聴きたいと思った。アナログレコードで聴いて楽しさが倍増するジャンルだ。
ジネット・ヌヴーはブラームスとシベリウスと、そして小品集が見つかった。クレーメルはけっこうあって、『ロッケンハイム・フェスティヴァル1983』の4枚組をはじめ、チャイコフスキー、バッハ、ベートーヴェン、シベリウス、シューマンがまとまっていた。ムターは小澤とやっているラロやモーツァルトの2曲とメンデルスゾーンとブルッフ。ポリーニは、と言うとピアノじゃないかと突っ込まれそうだがこのあたりからヴァイオリンコンチェルト中心というコンセプトはすっかり忘れている。ボリーニはシューベルト「さまよい人」、ショパンのポロネーズ集、24の前奏曲、ベームとやっているベートーヴェンの4番と5番のコンチェルト。そしてうれしかったのがベネデッティ・ミケランジェリの5枚、ブラームスのバラード集とシューベルトのソナタ、ドビュッシーの映像1とショパン集。そしてジュリーニとやっているベートーヴェンの4番と5番のコンチェルト。その他、良いシステムで聴くと地鳴りのするコントラバスのゲーリー・カーの5枚や、スターン、ロストロポーヴィチ、カザルス、チョン・ファ・キョン等々。そういえば、トーレンスの超弩級アナログプレーヤーやオープンのテープレコーダー2台といった機材もあったような気がする。
現実的なことを言うと、個人でやっているお医者さんにとっては、患者さんに音楽を提供するという名目によって、オーディオ装置やソフトは課税対象から外される。いわゆる節税の手段になるらしいが、そのコレクションを見ていくと、本当に音楽の好きな人だったのが伝わってくる。この演奏家、この作曲家が好きでオーダーしたということが浮き彫りになってくる。
数日すると、段ボールに入れられたレコードが届き、これらのレコードを徐々に聴き出している。聴きながら不思議な思いに捕らわれた。多くは未開封か、聴いたとしても1回とか2回という盤だ。おそらく30年から40年の時を経て蘇ったそれらの音楽は盤の中でひっそりと聴かれるべき時を待っていた。と書くと、かなりロマンチックだが、そんなことをふと考えさせられる。ディーリアスのヴァイオリンソナタのレコードにように自分がファーストオーナーであれば、いくら72年にパッケージされたそのものとは言え単にそれを買って聴いているだけなのだが、いったん購入され聴かれることのなかったこれだけのコレクションを再生していくと、そのお医者さんが楽しみかった分まで音楽を聴いているような複雑な気持ちにもなってくる。
やはりモノなのだ。
母校への思い出の多くが自分の通った時代の校舎という建築物やさまざまな場所の匂いや光に実はその多くを依拠するように、ハイレゾのデータだとこうはいかない。
どこかの国でプレスされたレコードがお医者さんにオーダーされて日本に届けられた。主人は亡くなり、レコードが残った。10年の時を経て処分。場所を移され、そして何の縁か鈴木裕が目にしてたくさんの枚数の中から選ばれた。そこに吹き込まれた作曲家の意図、演奏者たちの演奏。それを選んだお医者さんの趣味嗜好。残された中から選んだ偶然。そんな三重、四重の合わせ鏡のような世界ということが、ジャケットの紙や印刷の香り、ヴァイナルの真新しい盤面から匂い立ってくる。いずれ自分も死んで、これらのレコードも引き取られていき、次の世代の音楽好き、オーディオ好きの元で聴かれるのだろう。そうやって受け継いでいけるのばレコードならではなのかもしれない。
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1960年東京生まれ。法政大学文学部哲学科卒業。オーディオ評論家、ライター、ラジオディレクター。ラジオのディレクターとして2000組以上のミュージシャンゲストを迎え、レコーディングディレクターの経験も持つ。2010年7月リットーミュージックより『iPodではじめる快感オーディオ術 CDを超えた再生クォリティを楽しもう』上梓。(連載誌)月刊『レコード芸術』、月刊『ステレオ』音楽之友社、季刊『オーディオ・アクセサリー』、季刊『ネット・オーディオ』音元出版、他。文教大学情報学部広報学科「番組制作Ⅱ」非常勤講師(2011年度前期)。『オートサウンドウェブ』グランプリ選考委員。音元出版銘機賞選考委員、音楽之友社『ステレオ』ベストバイコンポ選考委員、ヨーロピアンサウンド・カーオーディオコンテスト審査員。(2014年5月現在)。
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