日本語はコミュニケーションしやすい言語か
日本語はコミュニケーションがしやすい言語だろうか?例えば、誤解が少なく、的確に伝わる言語だろうか?或いは、言葉を介して、スムーズに人間関係が構築しやすい言語だろうか?
前者に関して言えば、極めて誤解が生じやすい言語なのではないか。それは、頻繁に主語を省略し、目的語も相当省略し、動詞だけ、時には名詞だけのような文が、職場などにおいても、日常茶飯事だからである。
面白いので、日々様々な会話をあちこちで拝聴して収集しているが、いくつか再現してみる。
〈例その1 ラーメン屋バイトにて〉
ベテラン: はこび!
新人: えっ、なんですか?
ベテラン: はこびやって。
新人: ……。
ベテラン: これ、Aのテーブルに運んで。
新人: はい。
この場合、最初の会話文は、動詞が勝手に名詞化した上、あまりにも文が不完全である。「〇〇さん、このラーメンをAのテーブルにはこんで」という文が、ほとんど原型を留めない。これを理解するのは至難の技。
〈例その2 友人同士の会話にて〉
Aさん: それでめっちゃ揉めて。
Bさん: 大変だったね。
Aさん: でももう辞めちゃったから全然いいけどさ。
Bさん: ええ?給料良かったのにもったいない。これからどうするの。
Aさん: はあ?うちは辞めてないよ。向こうが居づらくなって勝手に辞めたよ。
この場合、主語を省略し過ぎたために、肝心の誰のことを話しているのか分からなくなるパターン。日本語は、例えばロマンス諸語のように、主語によって動詞が変化する訳ではないので、主語を省略してしまうと、誰のことを話しているかは、もはや想像するしかない。
〈例その3 作業現場にて〉
上司: そこ片付けておいて。
部下: そこってどの辺ですか?
上司: この辺全部。
部下: この辺?
上司: とりあえず全部きれいにしといて。
こういった日本語の抽象度の高さは、相互理解を難しくする。そして具体的な指示を何も含まない指示というものが、日本中に溢れている。怒られたり雰囲気を悪くしたりしないために、常に相手の癖や性格を踏まえ、言わんとすることを察して、動かなくてはならない。
〈例その4 初対面で〉
教師のAさん: ここでB社長にお会い出来るとは思わなかったです。以前からネットで拝見していたんですよ、光栄ですね。
社長のBさん: 私もA先生の本は何冊も読んでいて、結構刺激を受けています。嬉しいですね。
教師のAさん: B社長も教育にはお詳しいですよね。
社長のBさん: いえいえ、A先生には遠く及びませんよ。
これは意思疎通において全く問題ない会話だが、日本語の難しさ、或いは奥深さ、或いは礼儀正しさ、或いは不自由さのようなものを感じる人もいると思う。それは、日本語には気軽に使える二人称が存在しないために、ずっとA先生だの、B社長だのという呼称を使い続けなくてはいけないということである。
例えば英語であればyouという誰に対しても問題なく会話が可能な、便利な二人称がある。ロマンス語や中国語などは、割とカジュアルな二人称と丁寧な二人称が存在するが、場面次第で使い分ければ、やはり同様に二人称代名詞で会話可能だ。それに比べ日本語の二人称は、「あなた」も「きみ」も、日常的に会話で使える語ではない。
だから会話の中で何度となく、敬称付きの名や、時には相手の立場を表すような二人称を使い続けなくてはならない。これは結構煩わしいし、日本語の会話で、なかなか距離が縮まらない原因ではないかと思うのだ。
日本語はハイコンテクストの言語だとよく言われるが、毎日これだけ想像力を働かせて会話し続けるのだから、精神疲労は半端ではないと思う。コミュニケーションに嫌気がさすのも納得する。言語そのものの運用能力というよりは、テレパシーに近い、相手を察する能力を身に付けないと、支障のないコミュニケーションは不可能と思われる。