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演技の表情と自然な表情

先日偶然、白杖の男性とその介助者の男性が、談笑している場に居合わせた。どちらも始終穏やかな口調で会話していたのだが、その白杖の男性の表情が忘れられない。柔和で温かみのある、これ以上ない自然な表情に惹きつけられた。そして、気づいた。その男性は、自身の表情を、客観的に鏡で見たり、観察したりすることは出来ないのだ、だからこそ、これほど自然で、内面が滲み出るような、柔らかい表情をしているのだと。

演技された表情は、接客業だけに留まらず、大抵無意識に作り出される。これは潤滑油的な役割もあるけれども、無理に作り込んだ笑顔は、見ている方も疲れる。海外へ行くと、気持ちの良いサービスはチップに付随すると言わんばかりに、にこりともせず接客されたりするが、個人的にはその方が気楽である。本来の心の動きと連動しない表情というのは、どこかぎこちなく、他人が見ていても気づくものだ。擬装しない表情というのは、実は社会ではそれほどお目にかかるものではないのかもしれない。

これは演奏にも言えるのではないかと思う。バイオリニストの千住真理子さんが、本に書いていた。2人のチェリストの別の演奏会へ行き、同じ曲を演奏するのを聴いたそうである。1人目のチェリストは大変器用に、流暢に、悲しみとはこういうものだ、と音楽で表現していた。一方2人目は、無骨な感じで、まるで演奏者自身が悲しみを体現しているようだった、というような感想を書かれていた。千住さんは、この2人目のチェリストの演奏に惹かれたのだそうだ。

これは、洗練された演技よりも、自身を曝け出すような率直な不器用さが、より聴衆の心の奥まで到達するという例ではないかと思う。

まだ10歳にも届かないような、若い奏者のコンクールなど聴いていると、時々違和感があるのは、この部分だ。おそらくその音楽の表情は、指導者や他の大人によって、演技を植え付けられている部分があり、無理に作り込んだ感じがする。一方多少たどたどしくても、自分がこうしたいから演奏していると感じられる音楽は、聴いていて思わず惹きつけられる。

感情は他人から与えられるものではなく、自分の内側から沸き起こるものだ。同じ音楽でも、人によって違う印象を感じるのが普通なのだ。例えば非常に美しい楽曲があったとする。これを純粋に繊細な美を表現した音楽と感じるか、または悲しみを昇華させた儚い美しさと感じるかは、受け取る人の感性次第で、正しいとか間違っているとかいう問題とは違う。

視覚の表情にしても、聴覚の表現にしても、一般に、表情は豊かな方が良いという前提があるように感じるが、これも一概には言えない気がする。個人的には、例えばダイソーの自動レジの「お金を入れてください」の抑揚がかなり気に障る。ロボットのように機械的に言われた方が、ずっと気分良いのにと思う。過度な表情、表現は不快にさせる。淡々と話している人の方が、むしろ話の内容が伝わり易いという面もあるように思う。

音楽も表現過多になると、不自然な上、何が言いたいのかよく分からない散漫な印象になってしまう。個人的には抑制の効いた演奏が好みで、それは音楽そのものの良さが際立つからだ。美味しい素材は、調味料だらけに料理しない方が味が引き立つのと同様。控えめで地味な演奏にも魅力がある。押し付けがましい表現を聴いているより、負担なく長時間聴いていられる。音楽そのものを深く味わえる。コンクールやレッスンの先生に評判は良くないかもしれないが、淡々と弾くというのも一種の音楽表現だ。



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