母娘にしかわからないこと
【虫エッセイ】
まだ私が、実家で暮らしていた数年前のこと。
仕事が終わってクタクタで帰宅した夜8時。
疲れ果てた人間の怒りの沸点は、液体ヘリウム並に低くなっている。
その夜の私は、目に入るもの全てに片っ端から「はぁ?」「んもぉー!」と吠え立て、とにかくイライラ当たり散らしていた。
仕事で何かあった…のは確かだけど、今考えるとなぜ怒りをそのまま持ち帰り、関係のない母親にまでこんな態度を取ってしまったのか、いささか理解に苦しむ。
何があったのかさえ、今となっては思い出せないというのに。
とりあえずご飯を食べ、自室に籠もろうとソファから立ち上がると、母に呼び止められた。
「ちょっと。あんた。待ちなさい。」
うわー。なんかめんどくさい感じがする。
「なにさ。」
この雰囲気はなんか文句言われる感じ?
さっきからその態度はなんだ!とか?
「ちょっと、手ぇ出してごらん。」
はぁっ?
「なんでさ。やだよ。」
「いーから、出しなってば。」
ろくな事がなさそうなニオイがプンプンしたけど、私同様、一度言い出したら聞かないのが私の母である。
仕方があるまい。
ここは差し出すしかない。
「もぉー!なんなのさ。」
母の肉厚な手に隠された何かが、私の手のひらに乗せられた。
それは、なんの脈略もない突然のオニヤンマだった。
もう動いていないオニヤンマ。
「今朝、畑やってたらさ、キレイなまんまで死んでたの。あんた帰ってきたら見せてやろうと思って取っておいたんだけどさ。すっかり色変わっちゃったね。眼も体もすごい鮮やかな色してたんだよ。」
30過ぎの娘に見せるためにオニヤンマの亡骸取っておいて、プンプンブリブリ真っ最中の人間の手に載せる母って、なんか色々すごくないですか?
その後の私はというと。
もちろん母に見えないようにあっちから、こっちから眺めてはニヤニヤしましたよ。
なんのはなしですか
こんな機嫌取りの方法もあるのかと感心した、33の夜のはなし。
やっぱり私の母だな、と認識した夜のはなし。
自室のスタンド下に置いて眺めた静かな夜のはなし。
いや、ほんとになんのはなしですか。