見出し画像

本を読むことの効用が、本を読み続けてからわかる

本を読むことはいいことだなんてセリフを小学生の頃から周りの大人に聞かされてきた。しかし、周りには本を読んでいる人なんて見たことがなかった。

書店に行けば、読む本の冊数とその人の収入が相関関係にあるなんてチラシも見たことがある。

私自身、本を読むことはかなり苦手で、読書感想文で必要に迫られて読むこと以外、ほとんどなかった。
本を読むようになったのは大学生の頃だった。
自分でテーマを選んで本を読み、レポートや論文を書いていくということを繰り返すうちに、いつの間にか、本に触れる毎日が当たり前になってしまった。
今では本に触れない日は気分が悪くなるほどだ。

ここまでくると、もはや本を何のために読むのかとか、なぜ本を読むのがいいのかなんて聞かれても、意味がない。別に好きで読んでいるのだから仕方がないとしか答えられない。

ただ、本を読む効用という点を考えると、読んでいるうちにこんな効用があるのかもしれないと考えるようになった。それを書いてみたい。

潜在的資本

「潜在的」とは、表に見える形で現れてこないものを表す。氷山の一角が表に現れてくる部分だとしたら、海中に沈んでいる部分は目に見えない。それが潜在的な部分だ。読書は人間のこの潜在的な部分をリッチにしていく行為だと思う。

リッチにするとは何か?
「リッチ」という言葉が多用されるのは、主にお金を指す場面だ。
お金は商品やサービスなどの価値と交換できる架空の価値だ。
商品やサービスにお金を払うという行為は、その代わりに商品やサービスという価値(利益)を受け取ることができる。つまりお金は価値(利益)を得るための元手である。これを「資本」とも言う。
この「資本」という考え方をお金以外にも適用した人がいる(P.ブルデュー)。
例えば知識や教養、立ち振る舞いなどを「文化資本」、人間関係(コネなど)を「社会関係資本」というように。いずれも重要な場面で持っているか持っていないかで、お金を持っているかいないかのように、大きな差を生み出す元手だ。

こうした考え方を踏まえると、読書は(お金のように数値や貨幣のような目にみえる形では現れてこない)潜在的な資本だと言うことができる。
この考え方を用いると、先ほどの読書と収入の相関関係は、読書がお金に換金されたと解釈できる。海中の氷山である潜在的資本(読書)が、氷山の一角である顕在的資本(お金)として現れたというわけだ。(もちろんこれは仮説で、実際にどうかはここでは触れない)

見える世界の広さ

ものを知らないというのは、暗闇の中で身動きが取れない状態だ。なぜなら人間は、言語を介して世界を認識しているためだ。知らないということは、そこにあっても認識できないことになる。知らないことはその人にとって存在していない世界(暗闇)だ。仮に近くに絶景が広がっていても、宝石が落ちていても気がつかない状態。本を読むのは自分が立っている暗闇の中に光を灯していく営みだ。
明かりを灯す行為は、言語を媒介として行われる。明かりに照らされている部分が多い人と、ほとんど見えない状態で生きていくのとでは、どんな違いが起きるのだろうか。おそらく、暗闇が多いと行動範囲が狭くなるのだと思う。見えていない世界についてどう行動を起こして良いのかもわからないし、そもそもその人にとって全く見えていないのなら存在していないことになる。よって何かアクションを起こしてみようという発想自体が生まれないことにもなる。明かりで灯された世界を見ている人からすると、なぜあの人は何もしないのだろう?というふうに見える。

パッと思いつくのは今のところこんな感じ。
これから新しく気づいていくことも出てくるかもしれない。現時点で私はそこまで明かりに照らされている世界を見ているわけではないけれど、これからも明かりを灯していきたい。


いいなと思ったら応援しよう!