仕組まれた体験・学習と評価 ー萩原健次郎「子ども・若者の「余暇」と「社会参加」子ども・若者の居場所」
私がこれまで書いてきたことのなかで、「評価」というものへの懐疑心と、「いいね!」と認めたいという二つの矛盾があったと思う。
自己改善のための「評価」が必要なことは認めつつも、他者に対する「評価」は、評価項目によって評価することで目的化してしまい、それ以外の可能性を排除することにつながることを危惧するからである。
一方、「いいね!」と認めたいというのは、子どもでも大人でもこの人のこの部分は他の人より突出していいなと思うことがある。文章がうまいとか展示が上手いという能力の場合もあるし、人間関係の調整能力や相手のことを考えた表現能力だったり、本当に人それぞれである。こうしたものを評価項目を決めてしまって評価はできないので、言葉によって「いいね!」といって本人にその能力を自覚してもらうことが大切だと思っている。本人だけではそのよさが見いだせない、他者がいるからこそ見いだせるからである。
博物館でのワークショップや事業に対する評価なども頭のなかにぼんやり起きつつ、あまりに目的的な状況なることに息苦しさも感じている。そんな折、「社会参加」と「余暇」という私にとって興味深い二つのワードが入った動画を発見。
そのなかで、駒沢大学の萩原健次郎さんが、「体験・学習の意味」について以下のような指摘をする。
仕組まれた体験・学習
大人の側が体験内容を事前に価値づけて設定し、体験・学習のプロセスをあらかじめ水路づけた活動。体験を通した何かしらの能力や認識の獲得が目指されるため、体験のもつ有用性に力点が置かれる。
有用な体験だけでなく、ぼーーーっとすること、無意味なこと、何でもないこと、そういうなかで、偶発的にその人らしさを見いだせる「余裕」って大切だと思う。
≪参考≫
動画の1:17:37から1:55:32にかけてが萩原健次郎さんのご発表です。