古文を学ぶ意義、そして未来の日本の教育、日本論理力検定「論検」というものを考えました。

※漢文はまた話が変わってくるので今回の話からは除外します。古文漢文は似ているようで学ぶ意義がまた違ってくると感じているので書きません。実際私も漢文についてはわからない状態です。


私は、今の日本の「古文の教育」が嫌いです。

古文の学ぶ意義が、目的が、教育機関内において自己目的化しきっているからです。

これは制度による問題で、今からいくらでも変えることができると私は思っています。

そして、かつ古文の教育改革から、それを皮切りに日本全体の教育を変えていけるとも思っています。

簡単に言うと、高校古文は必修のまま、共通テストなど大学受験の必須問題にせず、家庭科や芸術のように、もっと学びたい人だけが古文のテストを受ける。

そして、空いた国語のスペースに「現代社会の論理」的な、学問で推し量る論理ではなく、実際の事例から、社会から学ぶ論理力というものをニューノーマルにして行ったらどうかという一意見です。

社会全体の総合的なリテラシーを高めるということです。

「社会リテラシー」みたいなものですね。


それでは詳しく説明していきます。


私はついさっきまで、今少しずつ言われ始めている古典不要論というものを指示していた者でした。

学校で教えることの優先順位が古文よりもっと高いものがあるだろと、

例えばマネーリテラシー、キャリアデザイン、社会課題解決思考、、、

実社会を生きる上で必要なリテラシー、身に着けていることが常識とされているこの思考基盤というものを学校で教えるべきである。

よりもっと今の子供たちには必要だろうと、だったら古文はやりたい人だけやればいいじゃないかと。

もちろん今でもその思考は変わっていませんが、ある動画を見て考えが変わりました。

これです。

「有隣堂しか知らない世界」というチャンネルの

【Pretenderを”古文”で歌ってみた】古文訳J-POPの世界

という古文訳j-popの世界というシリーズの一本目の動画で、

あのマツコの知らない世界に寄せてきた有隣堂という関東に展開している書店の公式YouTubeチャンネルで、登場人物がみんな癖が強くて本家より面白いんじゃないかって思ってるくらいで、見つけた昨日の深夜に徹夜で全動画一気見してしまったのですが、

この動画自体もめちゃくちゃ面白いのですが、最後の方に言われた

「入試に古文いらないんじゃないかな…?」という質問に

「いやいや、古文ができないと蓄積されてきた文学を捨てることになっちゃいますからね」

という言葉にめちゃくちゃ納得させられたんですよね。

それと同時に古文は文学であって芸術であることを思い出したんですよね。

けど実際、今行われてる古文の教育は文学的な楽しみ方でも芸術的な見方でもなく「古文の勉強」なんですよね。

他を見ても、本来教養であるものを正解教育のテストにして点数化してるものってほぼなくないですか?

というか、構造的に教養を正解教育にするのは限界があるし、学ぶ人、教える人、そして古文にとっても面白みがなくないですか?

私は古文の教育が嫌いですが、この動画シリーズはめちゃくちゃ好きです。

現代にはない言葉をどう古文で表現しようか、とか、言葉の奥ゆかしさを楽しむとか、j-popを逆翻訳することでこんなに芸術としての古文の面白さが伝わるのかとめちゃくちゃ感動しました。

「Pretender」も面白いですけど、「恋」や「TSUNAMI」や特に「プレイバックPart2」はめちゃめちゃ面白いです。

文学としての古文がこんなに面白かったのかと、逆に今の日本の教育もったいなさすぎるとも思いました。

まさに蓄積されてきた文学そのもので、古文のテストとか辞書とGoogleとか使っていいから指定されたj-pop1曲訳しなさいとかにしてもいいのかなとか思いました。(Googleはページの履歴を確認するようにすればパクリは回避できると思います。)

だから、今後古文はどうすればいいかと言うと、
蓄積されてきた文学を捨てないために、教養として学校という場がなければ学ばない人が多数だと思うので、単位は必修にして、でも芸大とか音大とか専門学校みたいに、古文学びたい人がどの学部行くのかは知らないですけど文学部?とかの入試には芸術として古文のテストを設けるようにすればいいんじゃないかなと思うんですよね。

高校での教育も、文法だけを集中として教えるのではなく、芸術として、現代語訳と共に、例えばここが奥ゆかしい古文ならではの表現なんだというところは文法を教えたりして、音楽で言う音楽理論のように、知らなくても楽しめるけど、ここのコード進行の変化を知るともっと面白いとか、不協和音をあえて使っているところが深みが増すんだとか、、、

面白い、楽しいという感情ベースで教育を進めていくべきだと思うんですよね。


で、ですよ。

もしこうなったのだとしたら、今の古文教育が担っていた論理的な正解教育の座が空きますよね?

授業時数とかは古文をこういう風に教育するのだとしたら今よりは時数が減ると思うので、そこに「現代社会の論理」(仮)みたいなものをいれるべきなんですよ。

始めの方に言った、マネーリテラシーとかキャリアデザインとか社会課題解決思考とか、総合的に言うと、こういう専門性持った分野たちの簡単なものを実践のパッケージとして学び、社会を生きる上での論理的思考力、社会リテラシーを高めていこうってことなんですけど、

それで、これらも共通テストとかで点数取るための目的化はしちゃいけなくて、実質家庭科の論理思考強化版みたいなものなので、正解はないんですよ。

でも、これを図る指針として検定を作ればいいかなと思うんですよ。

もちろんこれを学ぶこと自体に実用性はあって、意義は十分にあるのですが、大勢が受ける入試みたいな正解教育としてはいけない。

でも、この思考が秀でている人たちを図る指針が今のところは目立って出てきていないし、そういう人たちを欲している団体もあるだろうし、才能がある人たちが正当に評価されるべき適材適所の理論的に入試ではなく、プラスアルファの資格にすればいいと思うんですよ。

それで論理力検定です。「論検」。

具体的に思いついた作問は、

「AさんBさんCさんの3人で○○の社会課題について議論しています。しかし、途中論点が外れてしまうときがあります。その始めとなった発言を指定し、その理由を答えなさい。また、この文を読んであなたならこの問題についてどのような意見を持ちますか?○○字以内で記述しなさい。」(論理的読解力/意見を持つ)

「AさんがSNSで○○問題について発言したところ、炎上をしてしまいました。AさんがSNSに発言を投稿するまでの流れや発言内容に注意してAさんはどうすればこの炎上を回避できたのか答えなさい。」(情報リテラシー)

「生徒会で次の施策について議論が行われました。この議論の議決方法は何が一番合理的か、議論内容を見て理由と共に答えなさい。」(議論学/多数決・何割以上賛成・満場一致など、出席した人の属性を内容から判断し、議席数的にどう決めるのが合理的か見極める問題。議決方法以前に施策に対し、その決定自体の効果が低すぎるものであったらそこを指摘しても良いとかいう問題もあり。)

など、今までの試験とは一風変わった、人間相互の社会に生きる中で必要な理解力やメタ認知などの論理的思考力を実際の社会で起こり得そうな事例を問題にして、能力を図るこういう検定を作るべきだと思うんですよね。(実際にもうあったりしたらすいません。ぜひ教えて下さい。)

ただこれは検定にするとなると答えが一つではないので、判定が難しいところですね。できればAIとかに全部審査してもらえたら完璧なんですけどそうはいかないでしょうね。

また、難易度の設定が難しく、誰でも取れてしまうレベルにはしたくないですし、本当に一部の人しか取れなくするのもやめたいんですよね。

段階的に難易度を分けるのも難しそうですし、

一番嫌なのは、これができたせいでどんだけ努力してもこの思考力が身につかなかった人が差別される世界なんですよね。

多分これって割とそういう差別的なところが明確に合わられてしまう禁断の検定で、もちろんこの検定ができたら国民全体のリテラシーが上がる気はしますが、そういう現実がより浮き彫りになってしまうのではないかという危惧もあります。第二の学歴社会みたいにはしたくないです。

国民何パーセントが取れるくらいにしたらいいんでしょうか。。。

今の社会はこの論理力優位だった人が作り上げていて、自分はそれを加速させ続けた結果色々な社会問題が生まれてきていると感じているので、その助長にならなければいいのですが、

多分これは今までの勉強ができるできないの次の尺度なんですよね。

究極の論理テストというか、


まあ私がここで悩んでいても何も進まないので、とりあえずはここまで考えたよってことの報告として、このnoteを投稿したいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?