実際は慕われていた?!平将門の乱について~会話文形式で~
今回は地図とか相関図入れてみました!歴史創作としてお読みください!
1、登場人物
平将門、興世王、藤原玄明、
VS
源護(常陸国司)源扶、源隆、源繁、平国香、平良兼、平
良正、藤原秀郷、平貞盛、源経基、藤原惟幾(常陸国受領)
2、背景
(暗くてすいません。国香が一番上の兄です。)
平安時代、地方に派遣された下級貴族や豪族たちは「武士」と呼ばれ、勢力を広げており、それらが家来を集めて武士団を形成していた。その中の930年頃、父である平良将の死去により、平将門は朝廷から自らの所領である下総国佐倉に戻った。
しかし、
平将門「クソッ!父の所領が叔父の平国香と平良兼に横領されている。奴ら許さぬ!!ここは一旦同じ下総国の豊田に本拠地を構える。この雪辱いずれ果たす!!!」
平将門はこの豊田の地から勢力を伸ばした。さらに翌年には叔父の良兼と前常陸国司であった源護(ミナモトノマモル)の娘を巡り不仲となってしまう。
平将門「源護の娘を嫁に取ろうとしたが叶わなかった。これも良兼の仕業、決して許さぬ!!」
3、戦いの経過
(字汚くてすいません!)
〇平家の内紛
~935年~
源護の子である源扶(タスク)、源隆、源繁の三兄弟が平将門を常陸国野本で陣を構えて待ち伏せし、攻撃した。
源扶、源隆、源繁「いまだかかれー!!」
平将門「く、待ち伏せされたか。仕方ないかかれー!!」
源扶、源隆、源繁「クッ!敵が強い。逃げろーー!ぐわッ!」
シャッキン!!
この戦いに平将門は勝利し、源扶、源隆、源繁の三兄弟は敗死した。
平将門「この勢いのまま叔父の国香を討ち取るぞ!!!」
~常陸国石田の平国香の館~
平国香「な、なに!!将門が館を包囲しただと!?」
平将門「かかれー!!」
平国香「うわわわわわ!!!!!」
こうして平将門は叔父の国香まで討ち取ってしまった。国香は常陸国の国司であり、将門は朝廷に反逆したことになる。また、国香の息子の平貞盛は父の死を知り、急いで帰郷した。しかし、この時貞盛は復讐よりも京での官人として出世していきたいと考えており、将門との和睦を望んでいたと考えられる。
一方、息子たちを殺された源護は、
~936年常陸国水守の平良正の館~
源護「私の息子を殺した将門にどうか天罰を与えてくだされ!」
平良正「あい分かった!!将門を討とうぞ!!!ウハハッ!!」
しかし、平将門に返り討ちにされてしまう。
平良正「ち、ちくしょーーー!ここは兄の平良兼に助けを求めるぞ!!」
~平良兼の館~
平良正「兄上ー!ともに将門を打ちましょうぞ!!」
平良兼「わしの兄である国香殿を殺したことは許しがたい。あーい!!分かった!将門覚悟オおおおお!!!」
さらに平良兼は国香の息子である平貞盛を味方に率いれ、対将門連合軍を形成し、将門を攻めた。
(ごちゃごちゃになりかけたときの相関図!!)
しかしながら、将門の巧みな戦術により大敗を喫する。さらに、朝廷でもこの問題が注目集めており、将門のもとに朝廷から上京命令が届く。
将門「よし、直ちに上京し、私に非がないことを訴えるぞ!!」
~937年朝廷~
朝廷「そちの行為を軽い罪とし、恩赦する。東国に帰ってよいぞ」
将門「ありがたき幸せ!!へっつくシュン!!」
それから数か月後、平良兼の館では
~平良兼の館~
良兼「将門めええええ!!許せぬ!!!もう一度軍を起こし将門を討つ!!!絶対勝てるように平氏の祖高望王と将門の父である平良将の像を先頭に攻めるぞ!!」
良兼はこの戦法(少し卑怯かな(笑))を用い下総国と常陸国の境にある小飼(コカイ)に押し寄せた。
将門「な、なんだあれは?!われらの祖と我が父良将公の像ではないか!!こ、これでは戦えん!全軍退けーー!!」
良兼「今だかかれー!!!!将門軍の本拠地豊田まで攻め込めーーー!!」
この戦いに勝利した良兼は将門軍の本拠地豊田で略奪を繰り返し、将門の妻子までも捕らえた。
しかしながら、約1か月後には
将門「吉兼めー!!討ち果たしてくれるわ!!!!!!!」
良兼「ううううぎゃーーーー!」
良兼は戦いに敗れ、筑波山に逃げ込んだ。さらに良兼に悲劇が続く。将門が元主人の藤原忠平に良兼の暴挙を訴え、朝廷より良兼の討伐命令が出たのである。その後、良兼はさらに攻撃を加えるが将門に撃退されてしまう。そして939年6月に平良兼は失意の中で病に倒れてしまう。また、国香の息子の平貞盛は938年に命からがら京へ逃げ帰り、朝廷から将門への召喚状を出させることに成功したが、将門はこれに応じなかった。
注)召喚状→朝廷への出頭命令
〇朝廷との戦い
(勢力図です。こちらも拙くてすいません!!)
939年武蔵国の受領に就任した興世王(オキヨオウ)と介の源経基が足立郡郡司武蔵武芝と紛争に陥った。そこで武蔵武芝は将門のもとを訪れます。
武蔵武芝「将門様、どうか私たちが和睦できるように手をお貸しいただけないでしょうか。」
将門「あい分かった!」
こうして将門は調停を斡旋し、興世王と武蔵武芝が和睦することに成功します。
しかしながら、
~源経基の陣~
経基の家来「殿、周囲を敵に囲まれておりまする!!」
経基「ん、何!?どこの軍勢だ?」
経基家来「武蔵武芝の軍勢でございます!」
経基「武芝は興世王殿和睦交渉に出ておられるはず。ま、まさか興世王殿も裏切ったのか?!一旦ここは逃げ、急ぎこのことを京に伝えるぞ!」
そして数日後、
~朝廷~
源経基「平将門、興世王、武蔵武芝が謀反にございます。」
藤原忠平(将門の主人)「それは誠か?!今すぐ将門に真意を聞いてみる。」
しかし、将門は謀反を認めず、逆に経基が虚偽の罪で訴えられる。
(なんか自分が思っていた展開と全然違う(笑))
また、常陸国受領の藤原惟幾(コレチカ)と対立して税を納めず、乱暴を繰り返していた藤原玄明(ハルアキ)が将門のもとに逃げてきた。
~将門の本拠地石井~
玄明「将門様ー!助けてくなんしょ。」
将門「あーーーい!分かった!!ウハハはッ」
しかし、そこに藤原惟幾が玄明の引き渡しを要求した。
将門「何ーー!私にも義がある。引き渡すことはできぬ―」
939年、惟幾との対立が深まり、将門は兵1000人を率いて合戦となる。
将門「惟幾めーー!引き渡さぬと言うたであろう!攻めかかるしかあるまい。かかれー!!」
惟幾「こちらには兵3000がおる。負けるはずがない!かかれーー!」
兵力で圧倒した惟幾であったが将門軍に撃退されてしまった。
惟幾「つ、強い?!一旦常陸の国府へと帰るぞ!無念!!」
常陸の国府に逃げた惟幾であったが将門軍の怒涛の追撃にあい、降伏してしまう。しかし、国主を攻撃したとして不本意ながらも朝廷に対し反旗を翻した形になってしまう。さらに、将門は下野国や上野国などの国府を襲い、将門独自に関東に国司を置いた。
~上野国府~
将門「私は新皇である!!ウハハッ!!」
~940年~
翌年の940年1月将門謀反の知らせが届いた朝廷では将門追討軍が京を出立した。このころ将門は
~常陸国~
将門「国香の息子の貞盛はどこかーー!惟幾の子も見当たらぬ。ここは一旦本拠地の下総国に戻り、5000の兵を休息させるぞ!!農業もせねばならぬ!!」
将門の家来「はッ!!」
そのころ貞盛は、藤原秀郷と会っていた。
~藤原秀郷の館~
貞盛「将門が兵を解散させ、本拠地の石井へ帰りましたぞ!今が好機!兵4000ほどは集められまする!」
父の国香を殺された当初は将門との和睦派であったが、良兼などの対将門の平家一族の叱責や説得を受けて将門と戦う決意をしていた。
秀郷「あい、わかった!将門覚悟オおおおお!出陣じゃーーー!!!」
~将門本拠地石井~
将門の家来「平貞盛、藤原秀郷が兵4000を率いて出陣した模様!」
将門「なーーにィ!!貞盛めー!そんなところにひそんでいたのか!?今こちらはどのくらいの兵を集めることができる?」
将門の家来「ざっと1000くらいかと!」
将門「す、少なすぎる。しかし、時をかければこちらが不利になるであろう。急ぎその1000人を集めて出陣じゃ!!」
しかし、将門軍の先鋒隊が貞盛、秀郷の連合軍の前に敗北してしまう。
将門の家来「初戦の敗北の影響で兵が400ほどしか集まりませぬ!」
将門「ま、まずいな。しかし、ここまできたら戦うほかあるまい!」
連合軍は藤原惟幾の子の藤原為憲を味方に加えるなどさらに兵力を拡大し、将門本拠地石井に攻め寄せた。
~将門の陣~
将門「わが本拠地に攻め寄せたことを公開させてやる!!かかれーーー!」
将門軍「うおおおおおおおおおお!!」
将門「風は我らの味方ぞ!!ハハハハッ!!手を緩めるな!」
~連合軍の陣~
秀郷「い、いかん。この南風に乗って、将門軍の勢いが増しておる。」
貞盛「ここは一旦退いたほうがよろしいかと。」
秀郷「そ、そうじゃな!退けー!全軍撤退じゃ!んん?風向きが北向きになってきておるぞ!もう一度突撃じゃ!」
その頃将門は、
将門「このに勝利したぞ!!ハハハッ!さあ、皆の者石井の館に帰るぞ!すこぶる気持ちがよい!!んん?風向きが北に変わっておる。嫌な予感が、」
将門の家来「殿ーー!連合軍が攻め寄せてまいりますぞ!」
将門「くッ。仕方あるまい!私が先頭に立ち、敵を討ち果たす!!皆の者我に続けーー!!」
将門は先頭に立ち奮戦します。しかし、
将門「うおおおりゃ!!これがわが軍の底力ぞ!!はあああああ!!」
ヒヒーン(馬が足を取られる)
将門「ま、まずい。な、なんだあの矢の雨はああああ!無念じゃ!この雪辱死んでもなお、ぐはッ!!」
将門は額に矢を受け、あっさり討ち死にしてしまった。
秀郷「将門の首とったぞ!!」
貞盛「父国香の雪辱果たしたり!!!」
連合軍「うおおおおおお!」
4、結果
目まぐるしく戦況が変わったこの乱であったが最終的に平将門の死によって敗北という形で幕を閉じた。この結果、将門が独自に置いた関東の独立国は解体され、藤原玄明や国司との不仲が原因で将門側についた興世王などが殺された。一方、藤原秀郷や平貞盛、藤原為憲は朝廷から位階を授かった。また、この乱が与えた朝廷への影響は大きく、これ以降、武士の意見を無視することができなくなった。
5、歴史の時間
〇日本三大怨霊将門の祟り
将門には怨霊伝説があります。言い伝えでは将門の首が京都でさらされている間、眼は何か月たってもがっしり見開き、歯ぎしりしていたと言いわれています。また、将門の首は関東を目指して高く舞い上がり、途中で力尽き落下したと言われています。その首が落ちたされる一つに東京都千代田区大手町にある平将門首塚です。この首塚には関東大震災後や第二次世界大戦後に撤去や移設の工事が行われますが、数々の不審な事故や不審な死を遂げ、工事が中止されたという話があります。また、岐阜県大垣市にある御首神社も首が落ちた場所の一つとされています。
〇実は慕われていた?!
今では朝敵というイメージが強い将門だが実は民衆からは人気があったとされます。当時、朝廷や国司から重税が民衆に課されており、民衆は苦しんでいました。その民衆からしてみれば、将門は朝廷や国司からの重税から解放してくれた救世主だったのです。今でも先程紹介した将門塚はパワースポットとなっており、花が絶えず手向けられている。
日本史の覚え方講座はお休みです!(笑)
間違っているところがあったら申し訳ありません!!