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もとは海賊を取り締まる役目だった?!藤原純友の乱について~会話文でわかりやすく~
歴史創作としてお読みください!
1、登場人物
藤原純友、藤原文元(純友の幹部)、藤原純乗(純友の弟)、
✖
小野好古、橘公頼(大宰権帥)、大蔵春実
2、背景
930年頃から950年頃にかけて瀬戸内海で海賊による襲撃事件が頻発していた。その中で藤原純友は父を早くに亡くし、出世の道をすでに立たれた状況に置かれており、伊予という現在の愛媛県へ海賊を取り締まるという役割で送られていた。しかしながら、純友は939年、伊予国日振島を本拠地に置き、突如瀬戸内海の海賊を従えて反乱を起こした。
3、戦いの経過
~939年12月伊予日振島~
純友「朝廷の制度、仕組みには全く納得できぬ!この国を今一度ぶっ壊す!文元はおるか?!」
藤原文元(純友の部下)「ここにおりまする!」
純友「摂津国須岐駅に行き、備前介藤原小高と播磨介島田惟幹を襲撃せよ!」
文元「はッ!わかり申した!!」
こうして藤原純友は部下の藤原文元に備前介藤原小高と播磨介島田惟幹を襲撃させた。
~940年1月16日朝廷~
朝廷公家「な、なに?!瀬戸内海で藤原純友が軍を起こしただと!?先程東国で平将門が反乱を起こしたと連絡が入ったばかりぞ!ま、まさか二人が共謀して反乱を起こしたのか?!どちらにしろこれはいかん!小野好古はおるか?!」
小野好古「ここにおりまする!」
朝廷公家「そなたを藤原純友討伐の追捕使(討伐軍リーダー)を任じる!し っかりと励んでまいれ!!」
小野好古「はッ!!」
追捕使に任じられた小野好古はさらに西国に兵力を集中させた。
しかし、純友は
~940年2月5日伊予日振島~
藤原純友「次は淡路国の兵器庫を襲うぞ!われに続け!!」
海賊たち「うおりゃあああああああああ!!!!!」
純友は朝廷からの圧力に屈せずさらに反乱を展開させていった。
その数十日後朝廷では、
~朝廷~
朝廷の公家「好古から藤原純友が船をこいで朝廷がある京に向かっていると知らせが届いておる。さらにこの京で不審火が相次いでおる。こ、怖すぎる!いつ攻めてくることやら、、、。ここはとりま宮廷に兵を配置し、我らの都である平安京がある山城国の入り口山崎に藤原慶幸を派遣しよう!!」
しかし、その山崎も謎の火事により焼失した。これらの火事と藤原純友の乱との因果関係は不明だが、もし関係しているとしたら、平安京は大変危機的な状況に陥っていたことになる。
一方、淡路島を襲った後の2月26日、純友にとって衝撃的な知らせが入った。
~純友の陣~
伝令「東国で平将門討ち死にの御様子!」
純友「な、なに?!東国で平将門殿が討たれたじゃと!!ま、まずい。これで朝廷は全兵力をあげて私を攻撃してくる。ここは一旦伊予にある我が本拠地の日振島に引き返すぞ!」
こうして朝廷を一人で相手にすることになった純友は動揺し、一度日振島に引き返した。
その数か月後、朝廷では
~朝廷~
朝廷の公家「ハハハッ!!やっと東国の平将門の乱を平定することができたぞ!あとは藤原純友を討つだけじゃ!!」
側近「無駄な犠牲を出さぬよう和平案も条件付きで提示してはどうでしょうか?」
朝廷の公家「そ、そうじゃな!では純友の部下の藤原文元を引き渡せば朝敵とはせず、追悼もしないさらに、冠位を授けるという内容で持ち掛けるか。それにしても気分がよい!!!ぐはははははッ!!」
しかし、純友は
~伊予日振島~
純友「部下を手放せじゃと?!こんな非情な和平がどこにあるか!!許せぬ!」
海賊たち「頭、どうしやすか?朝廷まで攻め込んじゃいましょうぞ!!うおおおおお!」
純友「はははッ!まぁーそう焦るな。今の戦況を見てもその策は現実的ではない。瀬戸内海に面している政府の重要拠点から攻撃していく!皆の者心して戦かえー!!!」
海賊たち「うおりゃあああああああああ!!!」
940年8月、藤原純友は日振島を出陣し、伊予国、讃岐国、備前国、備後国、長門国を相次いで襲った。さらに、同年11月には大宰府を襲い、12月には周防にある鋳銭司(ジュセンシ)(貨幣を製造する場所)を襲撃した。
その数か月後攻め手を欠いていた小野好古の陣では
~941年2月好古の陣~
好古「くそッ!!純友めーー!!好き勝手やりおって!必ず成敗致す!しかしなぁー、どう攻めればいいことやら、、。」
伝令「好古様!吉報ですぞ!」
好古「なんじゃ?」
伝令「純友軍の幹部藤原恒利が純友を裏切りました!!」
好古「な、なんと!これは千載一遇のチャンス!一気に本拠地の日振島まで攻め込むぞ!!」
この攻撃で純友軍の本拠地日振島を攻撃され、陥落した。ここで一旦純友は行方をくらますが、941年5月に突如として大宰府を攻撃し、占領する。これに朝廷では激震が走り、すぐさま大宰府攻撃の命令を出した。
~大宰府の純友の陣~
純友「幹部の藤原恒利の裏切りはかなり痛手であった。あやつは一生許さん!」
藤原純乗(純友の弟)「兄上、これからどうなされますか?」
純友「迷いどころだが、そなたは大宰府の南にある柳川を攻撃せよ!南部にまで勢力圏を拡大するぞ!」
純乗「はッは」
しかし、この攻撃は大宰権帥橘公頼によって撃破された。
その頃、小野好古が九州に到着した。
~好古の陣~
好古「どう攻めるか思案のしどころじゃのう。なにか案はないか。」
大蔵春実(ハルザネ)「某に策がございます。」
好古「申してみよ!」
春実「私の軍は北から海路で大宰府を攻撃致します。好古殿は東から陸路で大宰府を攻撃してくだされ!」
好古「良い策じゃ!それでは純友軍を討ち果たした後の大宰府で会おうぞ!!」
春実「はッ!!」
その頃純友は
~大宰府純友の陣~
純友「純乗が太宰府南部で大敗したことで南部への拡大は阻まれてしまった。しかも、朝廷軍がすぐそこまで迫っておる。ここは内陸部ではなく、博多湾で最終決戦に挑む!!出陣じゃ!!!!」
海賊たち「うおりゃあああああああああ!」
こうして941年5月博多湾で朝廷軍と純友軍の一大決戦が行われた。この戦いは、両軍ともに死傷者を多くだし、激戦となる。しかし、純友に地の利があった瀬戸内海での戦いと違い、今回の決戦場は現在の福岡県の博多湾であり、地の利が使えなかったことや連戦の疲労により純友軍の大敗で幕を閉じた。
~純友の最後~
純友は戦いの後、小舟で伊予まで逃れていた。
純友「く、この伊予の地でもう一度再起を計るぞ!」
政府役人「い、いたぞ!あそこだ!捕らえろーーー!!!」
純友「く、もはやこれまでか。無念じゃ!!!」
純友は伊予で捕らえ、京都に移送中死去した。
こうして藤原純友の乱は幕を閉じた。
4、結果
平将門の乱の鎮圧と合わせ、この戦いでも武士が主役となって乱を鎮圧したことで朝廷は武士の意見を無視することができなくなった。
5、歴史の時間
〇藤原純友に味方した海賊の性質
海賊を当初取り締まっていた純友になぜ海賊は味方したのでしょうか?それは取り締まっていた海賊と純友に味方した海賊が別の性質を持っていたからだと言われています。純友に味方した海賊は、治安維持のために土着させられていた中級官人層であり、彼らは親の早世などによって京の貴族社会から脱落していました。それを武功によって立場回復を狙っていたという純友とほぼ同じ境遇に置かれていたということになります。しかし、彼らよりも位が上の人に自らの武功を横取りされるなど数々の不満が積み重なり、純友に味方したと考えられます。
〇なぜ反乱を起こしたのか
明確な理由は分かりませんが、この時代各地の国司の横暴や武功の横取りなどが横行しており、それをやめさせるために反乱を起こした可能性もあると考えています。もちろん、単に自らの恩賞の少なさから反乱を起こしたという説も十分考えられます。
〇平将門と比叡山で共同謀議をした?!
純友が反乱を起こした時期、東国では平将門も反乱を起こしました。その平将門と比叡山で会談を行ったという伝説が残されています。その内容としては共に勝ち進み、京を制圧した暁には将門は天皇になり、純友は関白に就任するというものでした。当時、世間でも将門と純友が共同して反乱を起こしたのではないかと騒ぎになっていたと言われています。しかし、両者が会談したという史料はなく、真相は不明です。
6、日本史の覚え方、見落としがちな事柄
〇969年安和の変→あんなをロックする。
〇藤原良房:太政大臣&摂政→藤原基経:摂政&関白→藤原時平:左大臣
良い(良房)基礎(基経)を築いたものは時(時平)が開ける
〇菅原道真:右大臣→元名古屋グランパス菅原由勢選手が右利きで覚えました。(笑)
*何度も言いますが少し創作部分が入っています。