2024/9/8 序篇
愛よりも先に、生きるうえでのごく狭量な「正しさ」を学んでしまって、今まで多くの物事を傷つけてきた。それが自覚としてある。妹だったり、かつての親友だったり、相手は色々だけれど、生活における弛みのようなもの、横道にそれる不健康さを、かつてのわたしは許してはいけないものだと信じていた。
簡単に言えば、そういう「家庭」だった。必要な話し合いすらうやむやにされてしまうような沈黙による支配、その冷たさ。周囲の大人の眼差しからこぼれる、世間体への並々ならぬ恐怖。生きる大地の広大さだけでなく、肉親という間柄ですら、どこか荒涼な風が吹いていた。いつも先立つのは厳しさであり、一方通行の愛情だった。(親になることは、少なからずそういった傾向を持たざるを得ないのかもしれないが。)
とは言え、互いに人間なのだから、そういったやり方で傷つけ合わずに済まそうとしたのかもしれない。けれど、子どもであるわたしたちにとってその対処の仕方は、精神的な栄養失調をもたらすものでもあった。
人と話すことに対する苦痛がぬぐえないのは、幼少期のそう言った栄養失調のため、胃が刺激になれていない部分が大きいのだと思う(今は楽しいと思えるようになったけれど)。家を出てから不健康さを受容すること(寧ろその中で遊ぶこと)には慣れたが、そういったわたしの系統的なディスコミュニケーションによって、無遠慮に傷つけてしまった人々に対しては、今も申し訳ないと思っている。
そういった経緯があるため、詩や文芸に出会えたのは本当に幸いだった。未分化の思いはどんどん募るのに、それを交わし・口にすることが出来ず、コミュニケーションが不足していたわたしにとって、喉の渇きを潤してくれる、言葉こそ水だったからだ。
やっぱりまだまだ生まれたばかりだし、学ぶべきことはこれからも大勢待ち受けている。人より多少遅れていたとしても、それだけでなんだか楽しく、自由を感じている。自分の足で歩いて、自分で決める。そこにきっと風は吹いているから。
*エッセイ集『いとしい、いといの、そのなかで。』(8/31ポエマ川越にて頒布)収録、「おりを発つ」の補遺として。
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