人生という作品──ヨルシカ『盗作』
⚠️小説『盗作』の内容に触れております。未読の方はご注意ください。
ヨルシカの3rdフルアルバム『盗作』の初回限定盤を受け取ったのは、片道一時間かかる学校へ、夏休み前の三者面談を受けに行った帰りのことだった。
ポストに佐川急便の不在伝票を見つけ、マンションの宅配ボックスから取り出したあまりに大きな段ボール。家に着くや否や待ちきれず、手を洗ってから玄関でうやうやしくそれを扱う。
盗作 -plagiarism-
灰色の表紙に銀で捺されたタイトル。それらを冠した一冊の本を持ち上げた時、想像だにしなかった第一印象が浮かんだ。「あぁ、これが"破壊"の重みか」。
遂に私の手元にも、ヨルシカから全世界に翳された"爆弾"がやって来た。
"音を盗む泥棒"
俺は泥棒である。往古今来、多様な泥棒が居るが、俺は奴等とは少し違う。金を盗む訳では無い。骨董品宝石その他価値ある美術の類にも、とんと興味が無い。俺は、音を盗む泥棒である。
歌うような語り口の自己紹介とは裏腹に、どこか影を感じさせるイラストたち。その動画が投稿されたのは、2020年6月1日のことだった。
音を盗む泥棒。音楽に触れたことのある人間なら誰しも「タブー」というその文字が頭に浮かぶような、衝撃的な男の自白。たった1分ちょうどの動画がもたらしたのは、あまりに潔く清々しい不穏であった。
それを皮切りに投稿され始めた、「ヨルシカ」という概念を覆すような数々の楽曲たち。中でも「春ひさぎ」のMVの概要欄に記された男の自白が「ヨルシカ」の破壊に加担したことは言うまでもないだろう。「売春」をテーマにした楽曲に埋め込まれたのは、盗作をする男の、世の中への諦観であった。
春をひさぐ、は売春の隠語である。それは、ここでは「商売としての音楽」のメタファーとして機能する。
悲しいことだと思わないか。現実の売春よりもっと馬鹿らしい。俺たちは生活の為にプライドを削り、大衆に寄せてテーマを選び、ポップなメロディを模索する。綺麗に言語化されたわかりやすい作品を作る。音楽という形にアウトプットした自分自身を、こうして君たちに安売りしている。
俺はそれを春ひさぎと呼ぶ。
絡み合う男の二つの本心
ただこの動画の概要欄に記された諦観が、男の「自分自身への諦観」であったということが、小説『盗作』を読んだ後確信に変わることになる。
音楽の盗作をする男は、至極当然な理由でその行為を慣行していた。生きる為の「金」稼ぎである。誰かを傷つけてやろうとか、騙してやろうとか、そんな他意は一切なく、ただ金になるメロディをバレない程度につまみ上げて世間に放り出していた、それだけのことなのだ。
しかし小説でも描かれる彼の自白──俺は泥棒である、から始まる各曲の概要欄と同じ語り口の文章──には、特殊の、そして止め処ない悲愴感が漂っている。そして本アルバムの表題曲「盗作」で歌われているのは、男自身のやり切れなさ、葛藤、そして渇望である。
それでも、作品の価値は他者からの評価に依存しない。盗んだ、盗んでないなどはただの情報でしかない。本当の価値はそこにない。ただ一聴して、一見して美しいと思った感覚だけが、君の人生にとっての、その作品の価値を決める。
「盗作品」が作品足り得ないなど、誰が決めたのだろう。
俺は泥棒である。
足りない、足りないとただ繰り返す楽曲の歌詞と動画の概要欄に書かれた自白部分は、一見噛み合っていないように思う。しかしこれらはどちらも男の本心であり、人生を突き動かす衝動であるに違いないのだ。
嗚呼、まだ足りない。全部足りない。何一つも満たされない。──金や生活や大衆からの評判があっても満たされないと感じた要因、それは他ならぬ自分自身と音楽の不純な関係なのではないかと思う。
自白に漂う悲愴感の正体、それは"最低な奴"であった父親の唯一の長所であり、愛する女性との再会のきっかけでもあった「音楽」という存在をいつしか金儲けの道具として扱い、世間に受ける為の音楽ばかり追求するようになった自分への嘲笑そのものなのである。
自分自身が"創作する振り"しかしておらず、まだ何も残せていないことに虚しさを感じた彼が祈りを託したのも、また音楽であった。
美、破壊、終わり
彼の人生を決定づけた出会いとして、もう一つが少年との交流である。
主人公は街中で聴いた何かが割れる音に無意識に引き寄せられるようにして、散らばったガラスを拾い集める少年に出会う。男の何もかもに興味を持つ多感な少年もまた、"物が壊れる瞬間"に魅了された一人だった。少年の手による破壊は幼いだけあって拙く自覚も責任感もないものだが、男がそれに触発されたこともまた事実である。
男は、破壊の美しさを知る。
物語と同時に進行するインタビューの中で、男は自らの主張のなさに気づいた際に"美しい終わり方"について考えたと語る。
最愛の妻の死で命の終わりを知り、自らも何かを残す為に、彼女がいなくなってから手につかなくなっていた音楽創作を再開する。そしてそれに隠された盗作の事実を自白することで、積み上がっていた全てを打ち壊す。その最も美しい瞬間を描いたものが、本作なのだ。
溢れ出す破壊衝動とともに、男の二つ目の本心が見え隠れする。作品の価値は他者からの評価に依存しない──音楽をどこまでも狡猾に道具として扱い、音楽をどこまでも真摯に信じ込んだ彼だからこそ、自分という作品の終わりを「音楽」に託したのだろう。
そしてこの作品自体もまた、破壊衝動から生まれたのである。
ヨルシカへの破壊衝動
先日公開された公式インタビューで、n-buna氏はこう語った。
次に何を作ろうかと考えたときに、まずあったのが、ヨルシカへの破壊衝動だったんです。今までやってきたこと、(中略)「夏の空気感を重視して、別れや喪失を綺麗に煮詰めて抽出したような音楽」というヨルシカ自体への認識を、まず壊したかった。
突き抜けるようなギターサウンドにエモーショナルな歌詞、それにsuis氏の透き通った声が乗った楽曲たち。ヨルシカの代名詞としてあげられるのは、「夏」「爽やかさ」「切なさ」といった単語だろう。
しかし今回のアルバムは盗作をする男の葛藤や嫉妬、違和感などを強く表した楽曲が大半である。今までの音楽性とは裏腹なダークな曲調を、suis氏が無感情な低音で歌い上げる。「夜行」「花に亡霊」には意識的に今までのヨルシカの雰囲気を残したそうだが、それ以外の楽曲の存在がヨルシカの代名詞を見事に破壊しているのである。
綺麗なものって、壊したくなるじゃないですか。
n-buna氏がさらりと語ったこの言葉──つまり綺麗なものへの破壊衝動にこそ、今回のアルバムの誕生から主人公の男の人生まで、全てが集約されるのではないか。
ヨルシカの"芸術至上主義"とは
作中のインタビューで男は、自分が綺麗に積み上げてきたものを破壊する、この行為自体が作品作りだと語る。"盗作家の破滅を描いた、俺という作品"。築き上げてきた知名度、名誉、評判。それが全て壊れた瞬間、彼という存在は作品になる。彼という一人の男の人生が、全て芸術と化すのだ。
人生は芸術を模倣する。
オスカー・ワイルドが戯曲の中で残した言葉。同時に、n-buna氏が前作のアルバム発売に寄せたインタビューでも常々語っていた言葉である。
前作『だから僕は音楽を辞めた』『エルマ』という二つのフルアルバムを通して描かれたのは、音楽を辞めた青年と、彼が残した手紙を元に青年の足跡をたどる女性、二人の物語であった。女性は青年の手紙と音楽に影響され、同じ場所を旅し、彼の対になるような楽曲を作っていく。一人の芸術が、他の人間の人生を変えていくのである。
今回のアルバム『盗作』は、形は違えどその言葉を表現した作品になっているのではないか。男は何かを残したい、破壊の美しさで心を満たしたいと考え、音楽作りに没頭する。それは自らを芸術化する行為であり、人生が芸術を模倣しているのだ。今回の作品で描かれたのは、一人の人生が、芸術に集約されていく様子なのである。
そしてヨルシカもまた一つの作品であると、折に触れてn-buna氏は言う。バンドという解釈とは少し違う、一つの物語なのだと。
それが体現されたのが、『だから僕は音楽を辞めた』『エルマ』の物語の完結に伴って2019年10月から12月にかけて開催されたコンセプトライブツアー『月光』だと私は考える。追加公演も含めて4公演、その最初を飾る東京公演に参加した私は、ヨルシカの作品への執着にハッとさせられたのである。
ライブ終盤、n-buna氏の語りと同時にサポートメンバーがハケていき、語りの終わりと同時にn-buna氏・suis氏が一礼してそれぞれの方向に消える。しばらくして、ヨルシカの存在に恍惚としたファンたち、その一部が誰からともなくアンコールを叫び始めた。その様子はあまりに魔法のようであり、私は呆気にとられて手拍子すら忘れ、成り行きを見守っていた。
それでも彼らは、舞台に現れなかった。
アンコールを求めたファンが失意のうちに帰路につく中で、私は興奮にさらされていた。これがヨルシカの芸術なのだと。手拍子の輪で呆然と立ち尽くす私の脳内に浮かんだ言葉を、今でも思い出す。
終わりのない物語はつまらない。
n-buna氏がよく語る言葉だった。
どんな物語にも終わりはある。だからこそ美しく、その終わりの瞬間が好きなのだと彼は言う。コンセプトライブ『月光』の1公演ずつもまた作品であり、計算し尽くされた起承転結がある。それを守り抜き、どこまでも作品に執着する彼らの姿勢に、改めて私は息を呑むことになった。
究極の作品『盗作』
どこまでも芸術に固執するヨルシカ。転生を繰り返して出会う少年と少女、死んだ青年と跡を辿る女性、盗作というタブー行為、綺麗な言葉やメロディの単なる羅列まで、彼らの手にかかれば全てが作品足り得る。
彼らの生み出す作品はどこまで築き上げられるのか、彼らという作品はどう完結するのか、それとも──。芸術を以て芸術を体現するヨルシカの求める、最高の終わり方。それは盗作をする男とも重なって、危うくも美しい。
自らを一つの作品と称するヨルシカの作品である「盗作をする男」、彼の生み出す作品、それが本アルバム『盗作』だ。『盗作』は、どこまでも作品として隙のない作品、究極の作品と言えるのではないか。
ヨルシカという芸術に影響を受けて様々な考察を巡らせ、楽曲を聴いて感情を生み出すことも、一種の創作だと言える。私たち受け取り手もまた、一つの作品であるのかもしれない。
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