高島俊男が好き
高島俊男を愛読しています。高島俊男は在野の中国文学者ですが、専門の中国文学についてだけでなく、日本の漢詩や明治時代の文学小説、あるいは漢字についてや文字と文明論などさまざまなテーマを論じています。とくにその該博な知識に裏づけされた書かれたエッセイはばつぐんにおもしろい。
週刊文春に連載していた人気シリーズ「お言葉ですが・・・」はどれを読んでも興味深いのです。ひとつ例をあげると「イチレツランパン破裂して」。これは著者が幼かったときいつも遊んでくれた年上の女の子が歌っていた手まり唄で、いまでもよく覚えていてスムーズに歌えるのだが、冒頭のこの「イチレツランパン破裂して」の歌詞の意味がわからない。
著者はさまざまな文献を調べ、この歌が全国で歌われていて、さまざまなバリエーションがあることを見つけます。日露戦争のことが歌われており、「ランパン」は「談判」と推測しますが、「イチレツ」のほうが見当がつきません。また歌の終わりの節のない「ノーチョ」もまっくわかりません。
この本のおもしろいところは、週刊誌に連載すると全国の読者からさまざまな情報提供や示唆などが送られてきて、その後日談がくわしく紹介されるところです。その結果「イチレツ」はどうも「一月(イチゲツ)」がなまったものらしく、それならば明治37年1月の日露交渉が決裂して、2月に開戦となった事実にあうだろうとか。
「ノーチョ」については、ある読者から「のう稚児さん」ではないかという手紙がきたそうです。「これには膝を叩いた。すると発祥は薩摩か?」といった感じで文章が続きます。著者の故郷は広島県の相生で、そこは九州の造船工が大挙移住してきた町であり、手まり唄の「ノーチョ」も九州からきたことばかもしれないと思索は続きます。
「お言葉ですが・・・」のエッセイは、このように主にことばを主題にしながら、著者が自身のいちばん深いところを見つめていく思索の旅です。吉田秀和が「永遠の故郷」シリーズで、あるいは加藤周一が「羊の歌」正続でおこなったように。ある分野の批評をきわめたひとは、自分自身を対象につきつめていくことをライフワークとして一度は試みます。
「批評」の究極は、自分自身を追及していく営為であるといってもいいかもしれません。