第8話 2勝7敗
2012年8月7日
7月が年度始まりであり、祇園祭休暇と長い盆休みを取りつつ、期首の予算会議や決算整理などに追われるため、この時期は本来業務の稼働は少ない。だからというわけではないが、昨日から博多に入って同業界の会社を訪問して打合せを行ない、夜は宴会。今日は同じく博多で経営者向けの勉強会に参加し、夜は懇親会。明日は東京に移動してまたもや経営者向けのセミナーに参加して夜には京都に帰る予定だ。
2007年12月末に社長になって以降、リーマンショックやらリストラやら労働裁判やらが続いたが、一息ついたころから外部の研修に頻繁に参加するようになった。良質なアウトプットのためには良質なインプットが必要という建前の元、半分は目の前の惨状から現実逃避をするために、もう半分はそこから抜け出すきっかけを掴み取るために、何かに取り憑かれたようにありとあらゆる研修や勉強会に参加していた。
後のエピソードでも出てくる、最も揉めて辞めた社員が転職会議に投稿してくれた会社の口コミには
とある。言いたいことはあるが、その人にはそう見えていたのも事実。
亡くなった父も研修好きで、よく社内に講師を呼んで研修会を開催し、社員に嫌がられていた。私の場合は社員を変えるよりも先に、自分自身をレベルアップさせる必要があると考えていたため、経理担当者向けのセミナーから経営者向けのセミナーまで、幅広いジャンルに足を運んでいたが、いつしかより具体的な内容のものだけに絞るようになっていった。
というのも、2006年の入社当初からいくつかの新規事業にトライしてきたが、1本たりともホームランはおろか、ヒットも出ない状況が続いており、いよいよ追い込まれつつあったためである。
2006年入社当時はある映画の衣装提供を行なった直後で、それらを全面的に手掛けたデザイナーが社内に在籍していた。そのデザイナーのオリジナルブランドを立ち上げ、映画のプロモーションをフックにECで販売していこうというのが最初の新規事業である。
結果は惨敗。父のガン再発により事業承継に時間を割かなければならなくなったため、片手間になってしまったことも要因の一つではあるが、そもそも市場規模が小さい中で、ニッチなテイストのブランド一本で勝負しようとしたことが第一の敗因。第二の敗因は、ECのノウハウがゼロだったこともあり、楽天市場に出店するという愚の骨頂としか言いようのない施策を打ってしまったことである。商材によってはECモール出店が良い場合もあるが、この場合はオリジナルブランドなので、自社サイトでコツコツ認知を広げていくべきだったと、今振り返ってみれば思う。これが1敗目。
次は2008年10月1日に自社オリジナルブランドのショップを四条河原町から一筋裏手に入った場所に開店させた。1年前から計画を進めていたので予定通り開店させたが、奇しくもリーマンショックの最中でのオープンとなる。しかし、ここで一歩踏み出していなければ、後の成功も全て無かったと考えると、運命とは数奇なもの。
ウール素材で開発した着物や、可愛い系テイストの帯・小物を取り扱い、一定数の方々から支持はされ、かなり早い段階で大手百貨店からのイベント出店などのオファーもいただけるブランドになった。
しかし、殆どの商品を自社開発したことにより、店頭の商品が頻繁に入れ替わらないため魅力的な売場にならない。その結果、想定より売れず、在庫負担が重たくなって新商品が作れない。そうして仕込むロット数を低くすると原価が上がって販売価格が高くなり、やはり売れなくなるという悪いスパイラルに突入し、黒字化には程遠い状況であった。本来なら一定数の製品仕入れも行ないながら、オリジナル商品も販売するというMDを行なえば、ビジネスとして成立するレベルには持って行けたはずだと今ならば分かる。振り返ると信じ難い話なのだが、母体がメーカーであったため、別アイテムであったとしても他社から製品仕入れをすることに対する心理的な抵抗感が社内に根強かったこともあり、そこに踏み出せるようになるまでにはここから数年かかることになる。2013年に立て直しを兼ねて拡大移転を計画するも、杜撰な計画進捗にストップをかけざるを得なくなり、閉店。ブランドもスクラップすることになった。これが2敗目。
2009年には親しくしていた和装関連企業数社の共同出資で会社を設立し、振袖の新しいビジネスモデルを作ろうという、良く言えばジョイント・ベンチャーのような試みも行った。結論から言えばそのビジネスモデルが成功するKSF(Key Success Factor)を誰も分かっていない中、中小企業のお山の大将が集まって話し合いをしても方向性が定まるはずも無く、終わった後の飲み会だけが盛り上がるという、どこかの青年と名の付く会のようになっていたのが実情だった。ただ、この時の参加メンバーは和装産業の中でも何かと目立つメンバーが集まっていたため、その後の取引も含めたコネクションの広がりにはとても役に立った。また、最終的にはこの時に立ち上げた法人の株を自社で全て買い取り、100%子会社化してレンタルを行なう会社として再編することにしたこともあって、雇用していたスタッフを継続雇用し、後にその人は宅配着物レンタル事業の主力の立ち上げメンバーとなった。これは親会社が着物製造卸というBtoB業態のため、同一法人でBtoCのレンタルを始めると得意先である問屋、又はその先の小売店から横槍が入る可能性があり、それらを避けるための隠れ蓑的な意味があった。優秀なスタッフを確保出来たことと、買い取った法人も一定期間隠れ蓑として機能したことも鑑みると、この事業も後に繋がったとは言える。但し、3敗目。
上記で挙げてきた事業と並行して、京友禅で染色した生地をインテリアや内装などの分野に提案していこうという試みも行っていた。大規模な展示会などに出展し、いくつかのOEMを手掛けたり、ホテルなどの内装などに採用されたこともあるが、黒字化するレベルには至らず、事業はスクラップ。そもそもやりたいと声を上げた社員にほぼ任せたため、その時点でそう上手く行かないことは決まっていたのだろう。4敗目。
自社リソースに拘っていると上手く行かないという反省から、外部の人材を登用して、和に限らない雑貨も含めたMDと体験やお稽古事を行なう複合ショップを開店させたこともある。その人が作り上げる世界観は、当時の自分たちのレベルからすると凄いように思えたので、何もかも丸投げしていた。しかし、事業計画も無いのにどう黒字化するつもりだったのか、当時の自分に私も聞きたい。5敗目。
最終的にスクラップはしたが、2敗目の自社オリジナルブランドは店舗と並行してECサイトを立ち上げ、それが京都きものマートという様々なメーカーの商品を扱うセレクトショップに進化していた。そのプロセスで採用したメンバーが、後の着物レンタル事業全般におけるWEB周りの立ち上げメンバーとなっている。ただ、仕入商品中心の販売となったため、競合他店との価格競争から抜け出せなかったこと。また、モール出店ではなく自社サイト運営であったため、集客コストもそれなりにかかっていたことなどから大赤字ではないが、仕入の資金負担の割には利益が出にくいという状況が続いていた。一方、並行して立ち上げていた宅配着物レンタルが大きく成長し始めたので、事業の選択と集中の観点から閉店することに。後に繋がったと言えるが、6敗目。
これら全ての失敗が、後のエピソードで紹介する宅配着物レンタル事業と実店舗着物レンタル事業の成功に繋がったことは間違いないが、随分と遠回りしたことも否めない。
事業を離れてコンサルをしていた頃、「可能性を潰すことが大事」という話をよくしていた。売上を増やす施策を検討する際に、この事業をやってみれば上手く行く「かも」しれない、小売りをしてみれば、卸をしてみれば、売上が増える「かも」しれないという話がよく出てくる。
殆どの案は成功しない。上場企業であろうとも、ベンチャー企業であろうとも、ありとあらゆる新規事業は成功しない。特に、この世にまだ存在していない事業であれば尚更だ。だからこそ、「かも」しれない選択肢を全て潰して行く、つまりは実際にチャレンジして失敗を積み重ねることで、やっと行くべき方向性が明確になる。机の上でそれらのシュミレーションが全て完結出来れば苦労はしないが、実際に事業をスタートさせてみて起こることを頭と身体で理解することでしか、新しい事業を成功させることは出来ないと、私は思う。
最後の7敗目は、後のエピソードで出てくる高級着物レンタル事業だ。6敗した後の2連勝で調子に乗って始めた事業が最後に立ち上げた事業となり、皮肉にもその失敗によって大きく運命は動き始めた。