瞑想には程遠く
月に一度ヨガの教室にいく。
わずか1時間半、先生の声掛けに合わせて、6〜7人が一斉に体を動かす。言われた通りにできているのかは、わからない。わからないけど、それっぽい動きしているうちに、1時間半は終わってしまう。まるで小学生の時の体育の授業のようだ。
できていても、できなくても、先生の言われた通りに動く。できないとわかっていても、言われたことをやる。わたしの動きの何がいけないのか、どうすればいいのか、考える時間も与えられぬまま、次々とわたしの順をこなしているうちに、結局何もできないまま授業は終わる、あの不毛な時間と似ているのだ。
大人の運動の良いところは、他人から評価されないところだ。できなくてもいい、それっぽいだけでもいい。幼稚園までは、そうだったはずなのに、小学生になった途端、成績がついてまわるため、楽しいお遊戯は苦しい授業に変わる。
何を評価されているのかもわからないまま、言われたことを一生懸命にやる。しかも、一生懸命は、評価者の主観で見た時に一生懸命に見えなければならない。基準がわからなさすぎて対応できない。
「いっそ、機械になりたい」と思ったあの苦痛な時間を思い出し「よく耐えた、わたし」と思う1時間半が、今月も終わる。
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