【煩悩の棚卸し①】承認欲求ってなんだろ?承認欲求ってなに?
どうも、狭井悠です。
毎日更新のコラム、109日目。
奇しくも、煩悩の数と呼ばれる「108」という毎日更新日数を超えたので、そろそろ、休止していた「煩悩の棚卸し」企画を再開します。
当企画の経緯は以下のマガジンにまとめてありますので、興味のある方は、ご覧ください。
先日、「ボクたちはみんな大人になれなかった」でベストセラー作家となった燃え殻さんと、AV監督の二村ヒトシさんの昨年の対談記事を読みました。
この対談の中で、二村ヒトシさんが、「なぜ、燃え殼さんの書いた小説が売れたのか?」という核心をつく分析を、冒頭で語っています。
なんていうか、読む人が心の奥にしまっておいた記憶が掻きむしられる小説なんだよね。それって、体験を元にした私小説であるにもかかわらず、書くときに「自分のことを分かってもらいたい」という意図が作者にまったくなかったからじゃないかと思うんですが……。
これって、Twitterでも引用文で書きましたが、すごく大事なことなんだろうと思うんですよね。
「自分のことを分かってもらいたい」という欲求から解脱すること。
これは、すなわち、煩悩からの解脱だと僕は考えます。
つまり、世の中に轟くような影響力を持つ作品というのは、作者の持つ煩悩から解き放たれたものなんだ、ということです。
そして、そうした作品を書き残すためには、一度、己の煩悩を棚卸ししたうえで、それらを徹底的に排除した文体を体得しなければならない。
僕は生涯の中で、ひとつの集大成とも言える作品を書いてみたい、という夢があります。その夢を達成するためにも、この「煩悩の棚卸し」という作業はやってみるべきだと考えています。
本来であれば、このような作業は人目につかない場所でやるべきことなのかもしれませんが、あえて、この思考実験の作業過程を公開することによって、何か新しい気づきがあるかもしれないと思い、今回の連載企画を続けているところです。
当初は、正直、煩悩と向き合うことに怖気付いていて、「書きたくないな……」なんて迷いがあったんですが、まあ、命を取られるわけでもなし、肩肘張らずに書けばいいか、という結論に至りましたので、フツーにコラムを書いてみますね。
また今回、煩悩を読み解くにおいて、僕自身の人生すべてに話題の裾野を広げると、とんでもないボリュームの文章になってしまいそうなので、「書くことにおける煩悩の棚卸し」をするという前提でお話を進めます。
さて。
僕は、「煩悩の棚卸し」をするうえで、自分の中で塒(とぐろ)を巻く煩悩の全容を、以下の6つのカテゴリに分けました。
・承認欲求
・成功願望
・恋愛依存
・自己陶酔
・厭世主義
・超人思想
今日、棚卸しを始めるのは、ひとつめの「承認欲求」です。
それでは、はじまり、はじまり。
承認欲求ってなんだろ?承認欲求ってなに?
はい。はじまりました、「煩悩の棚卸し」。
第一弾は「承認欲求」でございます。
さてさて、はじめておいて何ですが、そもそも、承認欲求ってなんですかね?
承認欲求ってなんだろ?
承認欲求ってなに?
まずは言葉の意味を見てみましょう。
人間は他者を認識する能力を身につけ、社会生活を営んでいくうちに、「誰かから認められたい」という感情を抱くようになる場合が多い。この感情の総称を承認欲求という。
承認欲求は承認されたい対象によって、おおむね2つのタイプに大別される。ひとつは他人から認められたいという欲求であり、もうひとつは自分の存在が理想とする自己像と重なるか、あるいはもっと単純に今の自分に満足しているか、という基準で自分自身を判断することである。前者を他者承認と呼び、後者を自己承認と呼ぶ。
劣等感の強い人間や、情緒不安定な人間は自己承認が困難だったり、あるいはその反対に過大な自己評価をしがちであることは、よく知られている事実である。また、思い込みが強い人間や被害妄想に囚われている人間の中には、幻想の他者を造り出してしまうために、自分が他者承認の問題であると思っていても、実際には自己承認の問題であるという錯誤がしばしば発生する。
なるほど。
承認欲求というのは、他者承認と自己承認のふたつの欲求があるということがわかりました。
例えとして、「物書きとして大成する」という想いを、これらふたつの承認欲求に分類して記述してみましょう。
「書いたもので人から認められたい、褒められたい、拡散されたい、凄い物書きだと言われたい」
これは、他者承認にあたる欲求だと言えるでしょう。
「書いたもので自分の人生の真理を見つけたい、作品を書くことで生きていて良かったと心から満足したい」
一方、こちらは自己承認にあたる欲求ではないでしょうか。
ここまで書いていて思ったのは、基本的に、noteも含めて、インターネットに溢れる文章の多くは、「他人に読まれたい」という他者承認の欲求に基づいた文章がほとんどなんじゃないか、ということです。
誰しも、書くからには、誰かに文章を読まれたい。
これは、おそらく自然な感情ではないかとも思います。
つまり、この時点で、承認欲求というものは、至極、当たり前の感情なのかな、という印象があります。むしろ、他者承認が最初から、全くない人というのは、ちょっとおかしい感じがしますねえ。
そして、文章を書くということは、他者承認の欲求を満たすと同時に、自己承認の欲求を満たすための行為でもあります。
そもそも、この「煩悩の棚卸し」企画自体が、「自分の煩悩の本性を知りたい」という、僕自身の自己承認の渇望からスタートしています。
文章を書くことによって、自己を一つ一つ細分化し、それらを分析して、自分が何者なのかを知りたい。
そういう意味で、文章を書くという行為は、自分という存在の本質を知るための自己満足的な特性も持っているわけですね。
うんうん、良い感じです。
とりあえず、体系的には理解できてきた。
ここで、思考の階層をもう1段階、深めてみましょう。
じゃあ、そもそも、なんで僕は「他人に文章を認められたい」のですかね?
そして、なぜ僕は、わざわざ「文章を書くことで自分のことを知りたい」のでしょうか?
まずは、僕が「他人に文章を認められたい」理由を考えてみましょう。
なぜ僕は、他人に文章を認められたいのか?
これは、文章を書くことそのものが、今の僕の社会における存在価値そのものになりつつあるからではないかと思います。
僕の今の職業は、フリーランスのコンテンツマーケティングライター・セールスライター・コピーライターです。
書くことでお金を稼ぎ、生活をしている身になった今、他人を納得させる文章を書くことは、僕の中で生き残るための処世術そのものになりつつあります。
そうした意味で、僕は「他人に文章を認められたい」と思っているし、「他人に文章を認められなければならない」とさえ考えています。これはもはや、自分の中ではマストなんですね。
また、もっと深ぼっていくと、「他人に文章を認められる」ことで、「そこにいてもいいよ」「生きていてもいいよ」という許しを得られる気がしているんです。
思えば僕は、文章を書くことで、いろいろなつながりを得てきました。
皆、僕が文章を書くと、仕事しかり、プライベートしかり、何かしら喜んでくれたんです。
仕事では、クライアントから「こんな風な表現がしたかった」「伝えたいことをうまく翻訳してくれている」と喜んでもらえます。プライベートでは、「こんな風に書いてくれてありがとう」「もっと文章を読みたい」と感謝をされることがあります。
そうやって、他者から自分の文章の価値を認めてもらうことで、僕は社会に自分なりの居場所を得ることができたと思っています。
そして、これからも他者と一緒に、この社会で生きていきたいから、僕は文章を書き続けるんだと思うんですよね。
ここまで書いてみてわかったことは、割と、僕の中の書くことに関する他者承認の欲求は、ポップなものであるということです。
そんなに、問題となるような歪みはないように思いますね。
それでは次に、僕が「文章を書くことで自分を知りたい」理由も考えてみます。
なぜ僕は、書くことで自分を知りたいのか?
これは、ちょっと恥ずかしい話になるのですが、「自分という存在の可能性を信じているから」だと思うんですよね。
僕はとにかく、現状に満足できない人間なんです。
「もっと良くなることができる」「もっと未来に可能性がある」と、自分を追い込むことが、とにかく好きです。
この毎日更新のコラムだって、そうだと思います。
別に、わざわざ忙しい仕事の合間を縫って、自分の身を削るように毎日、文章を書き続ける必要なんてないのかもしれません。
でも、なんで、こうやって毎日文章を書き続けるかと言えば、他でもない僕自身が、自分の文章を読みたいからでもあるんですね。
お、いいですね。そうだったんだな。
「他でもない僕自身が、自分の文章を読みたいから」書いている。
今まで言語化した経験のなかったことが、飛び出してきました。
なんかちょっと、承認欲求の煩悩の正体を、掴んできた手応えがある。
僕は、他の誰かの文章を読むことも好きですが、それ以上に、自分の書いた文章を読むことが好きなんです。
自分の書いた文章には、自らの血と汗と涙の痕があって、知恵を振り絞って書いた轍が、びっちりと刻まれている。
そんな文章を読み返していると、なんとも言えない、無上の悦びを感じます。
生きている、と思えるんです。
文章を書いていると、僕は自らの熱く脈打つ血潮を感じます。
逆に言えば、文章を書いているとき以上に、生きている実感を得られる瞬間があまり多くないんですよね。
たとえば、僕の友人は、いろんな趣味や生き方を持っています。ゴルフなどのスポーツに励んだり、釣りをやってみたり、ギャンブルやゲームを楽しんだり、あるいは、家庭を持ったり、恋人のために時間を使ったり。
でも、僕はそういう、今挙げたような諸々に、たぶん、あまり本質的な興味が持てないんです。
もちろん、誰かの趣味に付き合うことはあります。それに、誰かを恋愛対象として好きになることだってある。そして、それらの時間は、それなりに楽しいと思うことがほとんどです。幸せだなと思う時もたくさんある。
しかし、それらに費やす時間というのは、僕が本質的に求めている時間の使い方ではないんです。
僕は、それよりも、何よりも、自分の内面と向き合って、人生とは何か、生きることは何か、自らの使命とは何かを探求したい。
昨日よりも、今日、今日よりも、明日。
もっともっと、文章を書き続けることによって、自らの人生を読み解き、より濃厚な生き方を体得していきたいんです。
そのためには、何をするよりもまず、自分という存在と鏡のように向き合って、その姿かたちだけでなく、心の奥底、あるいは魂の先にあるものまで、細部にわたって書き出していかなければならない。
そのように考えています。
おお。そうか。そうなんだ。
なんか、すごいな。ほとんど考える前に文章が噴き出してくるので、とりあえず流れに身を任せて手を動かしていましたが、自己承認の話になると、ちょっと怖いくらい、書きたいことが出てきますね。
もう充分な気がしたので、まだまだ手が動きそうだったんですが、とりあえず、タイピングの手を、意図的にストップさせました。
そして、ここまで書いてきて、ずいぶんと、僕自身の承認欲求の煩悩の棚卸しができてきた実感があります。
どうやら、僕は自己承認の欲求が強すぎるようですね。
ここに、僕が書く文章の大きな改善点があるような気がします。
僕自身が抱える、承認欲求の煩悩の底は、この自己承認にあるようです。
そして、ここで、僕の自己承認における問題点を端的に説明できる言葉を、ふと思い出しました。
禅宗の言葉で、「野狐禅(やこぜん)」というものがあります。
野狐禅(やこぜん)とは、禅宗において、禅に似て非なる邪禅のこと。「無門関」第2則の「百丈野狐」に出る語である。野狐(やこ)は低級な妖狐の1つを意味する。野狐精(やこぜい)、野狐身(やこしん)、また生禅(なまぜん)ともいう。「仏法は無我にて候」として真実の仏陀は自我を空じた無我のところに自覚体認されるはずのものなのに、徒(いたずら)に未証已証(みしょう・いしょう、いまだ証していないのに既に証覚を得た)という、独り善がりの大我禅者をいう。いわゆる魔禅の1つ。
このように、野狐禅は、悟りの境地に達することを欲するあまり、独り善がりな瞑想に耽って、本質的な悟りにたどり着けない邪(よこしま)な禅の状態を意味します。
結論、僕は自己承認の欲求が強すぎるあまり、この野狐禅の状態に陥りがちであるということに、今、はっきりと気づきました。
そして、思うに、野狐禅に陥った者が書く文章というものは、読み手をどこにも連れて行くことができません。
ただ、自己の悟りだと思い込んでいる魔道に誘い込み、出口のない世界へと案内してしまう、非常に危険なものだと思います。
しかしながら、読者もそのような場所にやすやすと誘われるほど、馬鹿ではないはずです。自ずと、野狐禅の状態で書かれた文章には、読者は寄り付かなくなるでしょう。
つまり、自己承認の欲求が強い、野狐禅に取り憑かれたような文章は、そもそも誰かに読まれる価値のないものだということになります。
そして、僕は、自己承認の欲求が強いゆえに、気づけばそうした文章を書きがちなのかもしれません。
今後、特に作品を書くにおいては、野狐禅に取り憑かれることのないように細心の注意を払い、無我の境地に至ることを本来の目的として、無心に書き続ける必要があるでしょう。
これはちょっと、核心をついた感じがしますね。
膿が出たように、けっこう気持ちが良いです。
ここまで考えて、深ぼって書いて、良かった。
「煩悩の棚卸し」企画、第一弾、承認欲求の考察をこれにて終了します。
皆さんも、これを機会に、自身の承認欲求とは何なのかを、自分なりに考えてみてはいかがでしょうか。
意外な自分の素顔が見えてくるかもしれませんよ。
今日の僕は、まさにそんな感じでした。
書きほぐさないとわからないことって、やっぱりあるんですね。
引き続き、「煩悩の棚卸し」企画は続けていきますので、よろしくお願いいたします。
今日もこうして、無事に文章を書くことができて良かったです。
明日もまた、この場所でお会いしましょう。
それでは。ぽんぽんぽん。
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