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映画「バタリアン」レビュー「我が名はバタリアン,我々は大勢であるが故に…」(再投稿レビューです。)

1984年7月3日。ニューニーダ医療品商会で残業中だったフレディは
先輩のフランクから恐ろしい話を聞く。
軍人病院で化学物質を原因とするバイオハザードが発生し
死人が生き返って人を襲い,映画監督のジョージ・A・ロメロは
この事件をありのままに描こうとして軍の圧力を受け
大幅に脚色して制作した映画が
「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」だと言うのである。
更にフランクは話を続け化学物質に汚染された
「最初の生きている死体」は軍によって隔離密閉され
極秘に処理される筈だったが手違いでニューニーダ医療品商会…。
つまりココに届けられ地下に保管されていると言うのである。
フランクの「見てみたい?」との誘いに
ふたつ返事で応じたフレディはふたりして地下へと向かう。
ドラム缶に封印された「最初の生きている死体」の
面相の余りの生々しさに震え上がったフレディは
「コレ…甦って出て来たりないよな…?」
とフランクに尋ねると
「軍が作った特製のドラム缶だぜ?」「象が踏んでも壊れないッ!」
とフランクがドラム缶を平手で叩いた所,ドラム缶が壊れ,
かつてバイオハザードを引き起こした有毒ガスが噴出する。

ドリフのコントかな?

斯くして再びバイオハザードが発生し
「最初の生きている死体」は甦り
医療品商会に陳列されている
「犬の断面図」が生き返りブルブル震えてキャンキャン吼え始め
虫ピンで固定された標本の蝶が羽ばたき始めるのであった…。

本作の原題は「Return of the Livingdead」といい
直訳すれば「帰って来たゾンビ」だが
映画本編の文脈を鑑みるに
「帰って来たナイト・オブ・ザ・リビングデッド」
が正しい翻訳と言える。
要するにまったっしってっも
ロメロ監督に無断で勝手に作られた「続編」の分際で
「俺は正統な続編だァ!」とイキっているのである。

本作は1986年2月に公開され僕は初日に観に行って
「フザけるな!」
との感想を持った。
映画の制作姿勢も映画のコミカルな内容もね!

そして2ヶ月後に公開されるロメロ監督の「死霊のえじき」が
これなる有象無象の不届き者を成敗し
「正しいゾンビ映画の在り方」を指し示してくれると信じて疑わなかった。
僕はロメロ信者だったのだ。

1983年12月にマイケル・ジャクソンの「スリラー」の
ミュージック・ビデオが公開され
翌日には運動神経に優れた同級生が巧みにパフォーマンスを真似て見せた。

クッソ…「俺のゾンビ」を「愛されキャラ」にしやがって…。

そういう「ゾンビ」が「愛されキャラ」にされた
鬱屈を抱えて生きる高校生が僕だった。

大学生となって「バタリアン」を観に行って…。
「スリラー」の路線を受け継ぐ者が現れ
僕は半ば恐慌を起こしながら「フザけるな!」と叫んだのだった。

「俺のゾンビ」が…「俺のゾンビ」で無くなってしまう…。

祈るような思いで2か月があっという間に過ぎ…。
1986年4月。
僕は「死霊のえじき」を観に行った…。

あのさ。

確かに「バタリアン」はフザけているが…。
どうしょうもなく「勢い」があった。
だが「死霊のえじき」は生真面目ではあるが…。
最早昔日の「勢い」が無かったんだよ…。

「死霊のえじき」は僕が初めて映画館に観に行ったロメロ映画だった。

ロメロゾンビからは「生真面目さ」を学び
オタク特有の潔癖さと結び付いて
不真面目な「スリラー」や「バタリアン」に嫌悪感を抱く
キャリー・ホワイトの母親の様な人格が構築されていった。

しかし…「死霊のえじき」は「スリラー」や「バタリアン」に負けた…。
「生真面目」が「不真面目」に負けたのだ。

深い敗北感と共に
今更「死霊のえじき」も「バタリアン」も見返す気も起らず
34年経過して初めて「死霊のえじき」のブルーレイ(2020年)を購入し,
38年経った今「バタリアン」のブルーレイ(2024年)を購入したのだった。

購入した「理由」は良く分からない。
多分「人生の残り時間」が少なくなり
「今観ておかないと俺が死んじまう」
って焦燥感があったのだと思う。

「バタリアン」という邦題はBATTALION(大隊)という英題が付いている。
サッパリ意味が分からねえ「サンゲリア」や「ゾンゲリア」よりも
余程真面(まとも)な邦題と言える。
LEGION(軍団)を英題とする「レギオン」って邦題にしておけば
オバンバやトラッシュゾンビに
「我が名はレギオン,我々は大勢であるが故に」
って聖書の言葉で啖呵を切らせる事が出来たのにね。

「バタリアン」って邦題は,
その後「オバタリアン」って漫画の題名に使われる程人口に膾炙した。
「オバタリアン」のAmazonレビューは
常に炎上していて現在では考えられない酷い内容だと叩かれている。
まあね。
オバタリアン=おばさん+バタリアン(≒ゾンビ)…。
おばさんをゾンビの一種…。
モンスタークレーマーとして描く内容では致し方なし。

「バタリアン」に登場するゾンビは化学物質で死体が生き返った設定で
人の生肉を食わず人の脳ミソを食う。
「脳ミソを食う」と「痛み」が一時的に収まると言うのである。
つまり本作のゾンビは絶えざる痛みに苦しんでいるのだ。
また本作のゾンビは脳を破壊しても首を切断しても死なない。
従って「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」の通りに
ゾンビの脳を破壊し首を切断しても死なないゾンビを見た
フランクの台詞は
「映画と違う!」
となるのだ。
「奴等」は全身を焼却して灰にするしかない。

隣の葬儀屋をやってるアーニーが
「奴等」を焼くときの台詞は勿論
「塵(チリ)から塵に」
「灰から灰に」
となっている。
「最初の人間」アダムは神が塵から作られたのだから
人間は死んで「塵に帰る」のです。
だから「塵から塵に」。
別にキリスト教徒になる必要などありませんが
ギネスブックに載っている
世界一のベストセラーを読まないって法はありませんぜ。
「教養」がないと向こうの映画は楽しめない。

ところが灰となった「奴等」を焼いた煙が雲となり雨が降る。
その雨に当たると墓場の死体が次々と甦って来る。
従って「焼却する」という滅却方法ですら「悪手」なのです。

つまりコイツ等…「倒す方法がない」んですっ
軍がやった様にドラム缶の中に単体で封印してるときが
一番「安全」で蔓延してしまったら手の施し様がない。

更にタチの悪い事に「奴等」の一部には意識があり生者に話しかけて来る。

「ティィィナァァァ…オレを愛してるならオマエの脳ミソを食わせてくれ」

ってね。
コレは…フレディ(ティナの恋人)が言ってるのか
悪鬼がフレディの姿を借りて言ってるのか分からねえ所が「怖い」のです。

「奴等」が全力疾走して来るって点も怖過ぎますね。

本円盤の日本語字幕はスゲーぜ!

原語では
アーニー:You can hear me?(聞こえるか?)
女のゾンビ:Yes…!(聞こえるとも…!)
って言ってるのに字幕は
アーニー:名前は?
女のゾンビ:オバンバ…!
になっている!
コレ…劇場公開当時の…。
東宝東和の馬鹿が捏造したデタラメ字幕じゃん!

つまりこの日本語字幕…「全然正しくない」んですっ

脳を破壊されても首を切断されても死なない
タフなハゲ頭ゾンビだからハーゲンタフ,
頭からコールタールを被ったみたいなゾンビだからタールマンも
字幕にだけ固有名詞が登場してます!

本円盤には1987年6月5日放映の日テレの金曜ロードショーの
日本語吹替音声が収録されてます。
富田耕生,樋浦勉,塩沢兼人,小山茉美,二又一成,堀内賢雄,勝生真沙子,
屋良有作,納谷悟朗等の稀代の名演を堪能出来る。

「バタリアン」は公開されてから1年4ヵ月でTV放映なのに
「死霊のえじき」は2度目のブルーレイ(2020年)で吹替音声初収録…。
まあ…色々考えさせられますね…。

僕は1970年代が思春期だったからロメロの「ゾンビ」がスキですが
作家の菊地秀行先生は「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」がおスキ。
そして1980年代が思春期だった方は「死霊のえじき」ではなくこの…
「バタリアン」がおスキな方が多い様にお見受けします。

今分かりましたが「バタリアン」って「怖い」んですよ。
何しろ殺す方法がねえから。
人語を喋って恋人に向かって
「オレを愛してるならオマエの脳ミソを食わせてくれ」
と人間性を「試して」くる…。

「『バタリアン』がスキってヒトの気が知れない」って
酷い酷い酷い偏見はこの際谷底にでも投げ捨てようと思ってます!

でもな。

「死霊のえじき」は詰まらねえ…。
コレは偏見と言われようと視野狭窄と言われようと
例えスキな方がいようとも
「僕には詰まらない」
ので得意のタヨーセイとやらで受け入れて貰わないとね!

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