ホルヘ・グロウ監督の映画「悪魔の墓場」レビュー「女みてえに長い髪の若造が田舎にやって来てナマイキな口利いたらブッ殺されても文句は言えねえ…本作の本質はゾンビ映画版「イージーライダー」なのですよ…」
環境問題に一家言あり
英国の田舎町にノコノコやって来て尊大な官憲に
「カンケンオーボー(官憲横暴)!」
「ハイル・ヒットラー!」
「センソーハンタイ!」
とナマイキ言って得意顔になる男のクセに女みたいな長い髪をした
鼻持ちならない若造ジョージ(レイ・ラヴロック)が
害虫駆除用の超音波発生装置が死者を蘇らせ,生者を殺し,
その人肉を食う場面を目撃するものの,
本作のゾンビは「心霊」のカテゴリに入る為,写真に写らず,
物的証拠が何も残らない為,
「コーガイ(公害)がゾンビを生んだ!」
「ボクはこんなシャカイを認めないぞ!」
「コーガイハンタイ!」「コーガイハンタイ!!」
と連呼するジョージのきっわっめってっ癇に障る態度と併せて
刑事から一切信用されず,逆に彼が一連の殺人事件の犯人とされ,
官憲から追われる身の上となる。
僕もねえ…
「このガキャア…早く死なねえかな…」
とただひったっすっらっに
ジョージにヘイトを溜めて行く構成に唸る。
初見の際は「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」の様に,
「死者が生き返って歩く訳ないだろ!」
ってルビコン川を
「幾ら否定しようとも実際に死者が生き返っているのは事実なのだ」
とエイヤッと割り切って渡ったロメロの先見性ばかりを評価したが,
今こうやってブルーレイを再見すると,
「人と人とは斯くも分かり合えない」
という人類の歴史始まって以来の命題を扱っていて,
決して時代遅れとならない普遍性は,
本作の方が上なのではないかとすら感じる。
この映画はさあ。
「ゾンビが人を襲っている」
ってジョージが幾ら主張しても全く取り合って貰えないまま話が進行し
1.ゾンビはいるのだ。
2.ゾンビが人を襲ってその人肉を喰っているのだ。
3.ゾンビに喰われた者もゾンビとなるのだ。
を出発点として話を進めたロメロが
如何に偉大であったかを証明してるんです。
しかし…本作をナマイキな長髪のガキが田舎町で
「オオカミ(ゾンビ)が出だぞ~」と流言飛語を流布した結果
死体の肉を喰う悪魔教信者と見做されて
オーボーな官憲に射殺されて終わる
「イージーライダー」だと思えば
ナマイキな長髪のガキと勤勉実直に生きる壮年の刑事が
最後の最後まで「分かり合えない」のは「仕様」と言え…
ハッキリ言ってしまえば「ゾンビ」なんてどうでもいいのですよ。
つまり…「悪魔の墓場」の本質は
「ゾンビが出て来る「イージーライダー」」なんです。
グロウ監督は映画の冒頭でロンドンの街中で
若い女を素っ裸にさせ…
走り回る模様を撮っています。
昔のコトバで「ストリーキング」って言うんですけど
コレ…都会(ロンドン)では
「パフォーマンス」と受け取られ受容されても
田舎町でコレをやったら…
「ブッ殺されても文句が言えねえ」って
田舎町でやらかしたジョージの末路との対比に…
伏線になってるんです。
なんでストリーキングしただけで死なねばならんのか。
なんで男が長髪にしただけで死なねばならんのか。
若者が軽い気持ちで社会を変革しようとすると
「余計な真似すんな」って恫喝して来るのが大人で…
軽薄な若者を恫喝したうえ
「ナマイキな若造をブッ殺してでも分からせる」
って大人を
「イージーライダー」や「悪魔の墓場」で描いているんです。
本作は1974年当時としては相当なゴア描写を扱っている点を評価したい。
話の流れは「ナイト」と比べるとスローモーに感じたが,
コレはゾンビ映画ではなく
「ナマイキな若造と実直な大人は決して分かり合えない」
ってディスコミュニケーションの話と考えれば
男のクセに髪の長い若者「コレだけ言ってもまだ分からないんですか!」
大人「オマエの言うコトは一言一句信用ならんからな」
と言った具合で話が全然進まないのは寧ろ当然と言えるのだ。