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自省の合わせ鏡




俺はすぐに人を嫌いになる。
自分が悪い案件でも、
怒られると、怒ったその人が嫌いになる。
俺は1年半ほど前まで居酒屋でバイトをしており、
頻繁にグラスを割っていたのだが、
そういう自らの注意散漫さを指摘されることが
嫌になって、次第に上司が嫌いになって、
辞めてしまったほど、すぐ人を理不尽に嫌う。
もうこれは持病みたいなものである。
道で人とすれ違う時、
いつも避けるのは俺のほうなことに
疑問と怒りが胸に積もる
今日こそはどけてやらずに、
相手に道を譲らせてやると意気込むが、
すんでのところで結局俺は避けてしまい、
その度にどうしようもない情けなさに苛まれる。
そうしてこの上なく情け無い自分も、
すれ違った他人も嫌いになる。


こんな些細な反射で嫌悪を感じることは
誰にでもあることだが、
しかし俺はそれ以上に、
人を嫌いになるロジカル、
理屈の様なものがある。
つまり、自分の価値観に基づいて嫌いになる
人間の種類がたくさんいる。




一つ目の「人種」は、
人が居ようとところ構わず奇声を発し、
自分がこの世界で1番格好いいと
勘違いしている人間だ。
本人の中では小さな王様の気分なのだろうが、
ああいう連中は自分1人で威張ることはできず
いつも集団で騒いでいる、ただの猿である。
俺はこういう連中を心の中で
完全に見下しているはずなのに、
笑う集団の中学生に強いられる遠回りの最中で
非常に腹立たしさを感じ、
自分が嫌になってしまう。
先ほど、「心の中で完全に見下している」と述べたが、これは少し間違えているかもしれない。
ああいう連中の屈強さというか、
鈍感さが多少羨ましくもあり、
この自己矛盾がとてつもなく歯痒いのだ。
こういう自意識を植え付けてくる
存在であることも、嫌いな理由の一つだ。


二つ目になんの取り柄もないのにも関わらず、
体と態度と自尊心だけが大きくなった人間。
おそらく幼少期から甘やかされて育てられ、
挫折や絶望を体験することなく生きてきた者か、
或いは自分のそういう経験を挫折だと認識することもできないほどに頭が弱い人間かのどちらかであろう。


三つ目に加藤純一やれてんじゃだむに憧れて、
不謹慎な冗談や他人の陰口を集団で囁き、
時折毒にも薬にもならぬ自慢を嘯く人間たち。
虚勢を張って自分を必死に保護し、
不謹慎な冗談を理解できる自分は
頭がいいと悦に浸り、
他人の悪口で表面上の脆い結束を固め、
面白くない自慢話で
中身のない自分自身の存在に設定を盛り付ける。
そうして、それらを集団になって言うことで
自分の存在価値を必死で証明しようとする様に、
もはや憐憫の情を禁じ得ない。
ヒトラーのことを美大落ちとでも呼んでいそうだ。





ここまでつらつらと俺の嫌いな人間達について
書いてきたが、この三つの人種は、
すべて過去の自分でもある。
一つ目は小学生時代の自分。
二つ目は中学時代の自分。
三つ目は2年前の自分。


人は自身の言動を振り返り、反省して次の機会は
もっと良い振る舞いをしようと努力するものだ。
当然俺もそうするのだが、
その行いには過去の自分の行動を査定し、
一旦嫌いになり、
この嫌いな人物(過去の自分)のようにならないため
行動しようと心に念じる過程が生じる。
だから、俺は過去の自分の様な人間を見ると
自分自身で矯正した価値観がその姿を否定しだすんだろう。


嫌いな他人というのは、過去の自分を映す鏡だ。
醜いその虚像や左右反転のちぐはぐさに、
反射的に、また論理的に嫌悪を抱くのは
自然な反応かもしれない。
俺の様な後ろ向きの人間が、
それでも前を確認しながら進むためには、
嫌いな人間に鏡を見出すのと同時に
自分に鏡を向けることも必要だ。
そうした合わせ鏡の中で、
はるか先の自分と目が合って
恐々とするのも変ではないだろう。
過去の自分の気持ちはよくわかるものだ。
俺の様な後ろ向きの人間は、
常に過去を振り返りながら生きている。
そして自らの黒歴史を目にして悶絶する。
そのため、俺が他人に向ける侮蔑や嫌悪の正体が、
単なる共感性羞恥である可能性も捨てきれない。



数年後の俺は、今の自分、
つまりこんな長ったらしい文章を書き、
同年代はあまり聞かないであろう音楽を聴き、
音楽の知識がごく僅かにあり、
そして、好きなことではなく嫌いなことでしか
自分を語れずに、
noteに嫌いな人間の悪口を綴ることで溜飲を下げ、
ささやかな反撃をしたつもりになっている、
そんな今の自分を嫌いになっているんだろうか


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