なつかしさの正体は自己愛―ルリボシカミキリの青
『ルリボシカミキリの青』は10年ほど前に、2回買った本です。というのも、1回目読んだ後、なにかのイベントで「お気に入り本の交換会」という交流企画があって、断腸の思いで笑、どなたかと交換したのでした。
その後、やっぱり読み直したいフレーズがたくさんあり、1年後に再購入(Amazonの記録によると)。
当時は、子どもたちがちびっ子で、まとまって本を読む時間というのはなく、だいたい晩ごはんをつくりながら、とか、電車の移動中に、という細切れ読書時間でしたので、週刊文春の連載コラムをあつめたこの本は、隙間時間に読むのに最適。そして、子どもを育てながら自分自身の幼少期をたどり直しているような毎日には、福岡ハカセの子ども時代も垣間見れる視点がとても心地よかったのでした。
なかでも、なつかしさを引き起こす記憶はどこにあるのか?をテーマにしたコラム「なつかしさとは何か」「1970年代のノスタルジー」は、お気に入りコラム。なるほ確かに!と読みました。
匂いや音や味など、五感によって引き起こされた刺激が脳の回路の一部をそっとつつき、そこから発生した電気がシナプスづたいに次から次へと脳細胞を刺激し、その刺激の専用回路がつくられる。その回路は繰り返されるごとに強化されて、よりスムーズに電気が流れるようになる。
そうして記憶がつくられるのだろう、というのがハカセの論。この回路の説明を、星座にたとえているのも、文学的な文章を書くハカセならではです。
私にとっては、金木犀の香り、稲の匂い、真夏に水まきをしたときに巻き上がる土のにおい、は小学生のころを、バラの入浴剤の香りをかぐと高校生のころを一瞬にして思い出します。そして、その回数を重ねるごとに、記憶はより鮮明になっていくのを実感します。
よく、子どもの頃の記憶ほど鮮明に覚えている、なんてことがありますが、何度も思い出しているからそのたびに上書きされ、強化されている結果とのこと。もしかしたら、少しずつ、都合よくドラマチックに盛っているかもしれません。
なつかしさの正体
そして印象的な文章がこちら。2009年の国立博物館での「1970年大阪万博の軌跡」特別展で引き起こされた「なつかしさ」について。
時代のにおいやデザインによって喚起された脳の中の回路。その瞬間は確かに70年の万博をみていた。しかしハカセが本当に見ていたものは「万博を見に行った自分自身」なのだといいます。
そうだそうだ。それだそれだ。
当時、小さな子どもたちを連れて実家に遊びに行くと、栃木の風景や風の香りに癒される実感がありました。「なつかしい~」といいながら、大人が全力でブランコをこぎ、ザリガニを釣り、カブトムシを捕まえにいく。自然に癒されているつもりで、それは、その昔の私、つまり子ども時代の私が大人の私を癒していたのですね。
児童文学作家の石井桃子さんのことばですが、まさにその通り!です。
いまの私も将来のわたしを支えるのかも
そして、いま。
この本と、この本を読んでいたころの息子のお気に入りのTシャツの写真になつかしさを感じています。
Facebookが何年も前の投稿をひっぱりだしてくれるのです。2年間フルに着たおして、穴もあいて、そろそろ処分すべきか迷っている、洗濯してはあと1回だけと着させてしまう。という投稿内容。
本当、なつかしい~~。
あのころ、私と虫好きの息子と虫嫌いの娘と。速乾素材のTシャツを毎日洗っていた私。忙しくも、楽しかった。子どもたちもかわいかった。私も10歳若かった(笑)。
おや?なんだ、なんだ。ということは。
おもいでちょきんは、子どもの成長だけだなく、自分自身の成長の結果なのだ。きっと。子ども時代に限らず、「いまここ」を生きる私が、未来の私をささえるのかもしれない。
一方で、ノスタルジーは幻想でもあり、ノスタルジーに惑わされてはいけない。ノスタルジーに足をとられるな。とも。
そうそう、それも大事。
「いま」を見失ってはいけない。
ちなみに、交換によって私のもとに来た本はこちらでした。
そうそう。なつかしさに癒されることは「おもいで貯金を下ろす」感覚に近いと思います。